河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

北琵琶湖海津大崎から京都左京区常照皇寺まで

 たいそうな命題となったが、要は湖北海津大崎の桜と京左京区の常照皇寺の桜を楽しみ、序でに海津大崎の湖里庵鮒寿司、途中鯖街道で鯖寿司を楽しもうという旅。多少特色があるのは鯖街道で京都に入らず花脊・美山の渓谷(美?)ドライブするという点です。
 先ずは琵琶湖菅沼地区

 淳仁天皇陵があるという湖国陸の孤島のような菅沼地区です。764年11月11日親王の待遇をもって淡路国に流されたとされる淳仁帝は、淡路島では無く「淡の海」に奉られたという伝説ですが永らく湖国の孤島のような地区では言い伝えられています。
 菅沼神社 淳仁帝が奉られていますが

 この辺りを起点に海津大崎まで湖岸に桜並木が続きます。先週までは西から東への我々とは逆の一方通行でした、この日は交互に通れるのですが西からの車が多く我々は待たされることしばしばですが、これが返って桜見物には好都合です
 湖岸沿いの桜の並木

 海津大崎には「大崎寺」があり前がハーバーになっています。若い頃は何度かヨットでここまでたどり着き湖上から桜見物をしたモノですが、数年前に水上タクシーをチャータした時には水上バイクやカヌーが沢山で出ており船頭が「邪魔だ」と嘆いていた。彼らは掟(法律)を守るという意識が無いので、愚僧でも危ないと思うことしばしばでした。因みに愚僧も四級船舶免許は持っていますが細かい掟は忘れました。
 湖上タクシーより 往年の写真から

 海津大崎から5分ほどで清水桜が見物できますので、序で行とします。水上勉の「櫻守」で準主人公を務めた桜は、加賀の殿様の参勤交代の折何度も籠を止めて見返したという桜です。今でも国道9号のランドマークになっています。
 清水櫻

 さてボチボチ今夜の宿舎へ、マキノグランドパークホテル(旧マキノプリンスホテル)です。幾度も泊まっていますが砂浜に沿って建ち、今時では絶対に建てられない立地です。荷物を解いて待つこと暫く、夕餉の湖里庵の車がホテルに迎えに来ます。湖里庵は2018年の台風で建物が全壊、その後再建したのは聴いていましたが、一階が食事処で板敷きだが下足のままで利用でき全席カウンターもしくはテーブルになっています。

 カウンター席からカモが人間見物

 こうなると、座敷時代が良いように思えてくるのは人間の性ですね。女将も若女将に代わり若大将もフランス料理風にエプロンで料理の口上を述べられます。それを伺ってからこの日は9人でしたが箸を運びます。
 台風がきっかけで時代に合わせるのもまた自然

 御酒は地元の「冨田酒造」とか、なんだか親戚の酒を飲んでいるようで良くすすみます。米と水が主原料のお酒ですから、美味しいのは当然です、愚妻も本日は後片付けが無いからと調子よくお猪口数杯頂き料理も完食でした。

 地元のお酒

 料理は最後にイチゴのデザートがつくという、何度も通っていましたが見事なイチゴとアイスクリームが添えられると代かわりを一層感じられます。序で話ですが湖里庵は遠藤周作命名者で、当時は鄙びた宿だったらしいが今再会すると何と呼ぶか楽しみです。愚僧がここを知ったのは初代「あまから手帳」でした。当時の編集長は元A新聞の社会部長で自身の不都合で会社を辞めて、退職金を前妻に全て渡して離婚後起業した出版社でした。それから相当後ではありますが東京農大の「小泉博士」も、自身の発酵文化と掛け合わせて鮒寿司を盛り上げています。

 現湖里庵外見

 魚治本店 この店の食事処が湖古庵です

 さて、翌日は今津の西友で孫達に鰻を求めます。その前に時間調節にマキノでメタセコイヤ並木を見物、この先に在原という集落があって在原業平終焉の地とされ墓もどきもあります。湖岸では淳仁帝、山の中では業平と有名人が多く訪れているのがご当地です。
 届いた西友の鰻での自然演技とか NちゃんKy君とKz君達への鰻を求めます

 西友の前の道が立派なので、この道を西へ行けば鯖街道・・・と進むとやがてつき当たり。自衛隊の演習地の玄関に来ているようで、無理に進むと砲弾を浴びそうなので引き返しナビに問う。少し北に戻り今津の外れから303号線に乗っかると鯖街道に出るという。保坂と云う地点で小浜から来た鯖街道に合流し、安曇川沿いに京方向へ進みます。我々は昼食に「鯖寿司」を頂く。1本2500円の割には美味しい感無き味の故省略。その後安曇川を渡り怪しげな渓谷(県道783号)に分け入る。
 こんな桜で息抜きし更に進む

 美山の料亭と云われたらその気にもなる民家

 険しい道を横からぼやかれつつ進む、ふと気がつくと常照皇寺の脇にいるよく見ると脇の河が「大堰川」になっている。

 大凡の走行ルート

 寺の門に向かって進むと丸山しだれ櫻が出迎えてくれる。この桜もこの御寺の名物の一つ。寺の開山は南北朝時代北朝初代の天皇となった光厳法皇であり。光厳上皇は1352年に、大和賀名生にある南朝後村上天皇行宮にて出家して法皇となる。帰京の後、1363年ごろに丹波国山国庄を訪れ同地にあった成就寺という天台宗の無住の寺に入り、これを改めて新たに開創したのが常照皇寺の始まりであるとものの本に。
 山門から

 カレンダーのイメージです

 愚僧がこの寺を知ったのは仕事でお付き合いのあった日本写真印刷という美術印刷会社のカレンダーの秋頃の写真。山門から繋がる二の門にかけての紅葉のシーンに感動して以来です。数年前に自転車とブログ仲間の偐家持氏をお誘いしたのが初めての訪問。家持氏は愚僧が自動車でかけたウッディー京北間の距離を、往復十キロ以上もトレンクルで走られたのを思い出します。
 トレンクルで走ってきたと偐家持氏

 家持氏その旅の翌日か当日、突然両足がつったと亀岡城近くで地面に転がり込まれたのを思い出しつつ愚僧は二の門まで何とか登ることが出来た。しかし、ここで折り返した結果未だ足の痙攣は起こしていない。

 常照皇寺 丸山しだれ櫻

 北琵琶湖の海津大崎の桜見物を端緒に、鮒寿司に鰻、鯖街道の鯖寿司が胃袋編。菅沼の天皇や業平そして光厳天皇が多少の脳味噌編。心の癒やしには時々所々の桜や風景と大満足の旅が終わりました。この記事をブログ他にアップロードしてページを閉じたいと思います。
 散らばれる さくらの花の 旅栞  <偐山頭火

A君が逝って一年

 小阪教会日曜学校卒業生で中・高校生時代からの友A君が突然のようにこの世を去って一年が過ぎようとしています。同じ頃無くなった仕事関係の友人G君と同じステルス癌による死は突然やってきます。両名とも医師から死期が近いことは知らされていたようで、共に「もう一度会いたい(愚僧に)」と云う言葉を残し去って行きました。特にA君とは15-6歳の頃らの友人で、奥様もよく知った中であり、近くに住まいされていたこともあり刎頸の友と云う中でありました。お互いジャズが好きで、比良山でオールナイトコンサートの飯を食っている最中にマル・ウォルドロンが隣で饂飩を食っていた・・・と興奮されていました。
 槙を求めてきました 

 30歳頃から職と住まいを関東圏に移されてからも、何かと理由を求めて往来していましたが、寄る年波のせいで近年は会うことも珍しかったです。東京では葛飾柴又をご夫婦で案内して貰ったのが一番印象的でした。我が家にも来られて当時乗っていたブルーバードを譲ると、帰りがけに愚息が左に傾いていたと云っていました。奥様とお嬢様が助手席と後部左に乗っておられたので、愚息は見送ると思ったら重量配分を見ていたようです。
 何とか仏壇用に仕上がりました

 その後長らくお会いしないままお互いに定年を迎え、偶に読書会にもお越しでしたが遠距離で夫婦となると中々足が向きにくいのは仕方が無いことです。読書会では会の主たる方が無くなって「偲ぶ会」等が開催されていますが、A君をはじめO君そして後に会員となったN女史など物故者が増えてきました。毎年とは云えませんが、近い将来の読書会では「物故者を偲ぶ」と題してそれぞれのメンバーとの関わりなどを語り合うのも良いかもしれません。次回のお話があったおおりにでも提案しましょう。
 A君家のお墓に手向けました

 この墓にA君は入っていませんが、葛城山系の槙を手向けてきました。お骨のあるご家族の元には何かしるしをおおくりして弔って貰います。
 ひとりさり またひとりが 逝くともが  <偐山頭火
 

葡萄に鉄砲

 妙な取り合わせですが、少なくとも河内の葡萄農家には通じる表現です。この時期葡萄の蔓には新しい目が吹き出してきます。これが生長してたわわな房をぶら下げてくれます。
 今年の成長過程のネオマスカット

  この辺りから鉄砲に注意  

 やられましたね なんとか太い所でとまっています

 この新芽を襲ってくるのが「鉄砲」と呼ばれるカミキリムシ。軸の真ん中を打ち抜いたように食ってしまいますので百姓さんが鉄砲と恐れます。マラソン等で防除するのですが間に合わなければ写真のような結果になります。でも、どこかでぶち切るか、中に針金を入れて対策をとるかでやっつけます。愚僧は怪しいところは切り取り付近に薬剤を散布しました。

 昨年被害ゼロのベリーA

奈良山麓バイパス 當麻から風の森まであれこれ

 近年奈良は御所市へよく行きます。大阪柏原市から奈良へ入ると、二上山から五條市へ繋がる通称山麓バイパス沿いの道が好きなことが一番の理由です。この道は愚僧が会社勤めをしていた頃には軽四輪車一台が精一杯と行った道でしたが、卒業した2000年頃には山麓バイパスという二車線の舗装道路に改修されました。ただし、観光バスが入れるような観光施設・駐車場もなくタダでさえ忘れられた「観光都市」奈良のさらなる奥座敷として密やかな楽しみが残された道沿いです。そんな山麓バイパスのあれこれを墓の槙を買いに行った序でに。
 山梨・長野県の八ヶ岳を思わせる山麓バイパス

 山麓バイパスに入って直ぐに見えるのが堂塔が二つ建つ當麻寺です。勿論その手前から二上山も見えますし、相撲の元祖当麻蹶速伝説ともに野見宿禰と闘ったという力士姿の石像もあります。
  二上山を望む當麻(本当は香芝)の力士像

 ボタンで有名な石光寺もバイパス沿いにあります。二上山は山好きにとっては手軽なハイキングコースであり謀叛のかどで死刑に処せられ二上山に葬られた大津皇子を偲んで伊勢の斎宮から都に召された同母姉の大伯皇女が、二上山頂に眠る大津皇子をしのび詠んだ歌碑もあります。
 大津皇子の墓? 鳥谷口古墳

 「現身の ひとなる吾や 明日よりは二上山を いろせとわが見む」(巻二、一六五)  との歌碑もあります。今では、二上山麓で発見された横口式石槨の鳥谷口古墳が大津皇子の墓であるとする説が浮上しています。
 大伯皇女歌碑

 バイパス沿いの石光寺も良いですよ

 當麻寺はお寺より中将餅の方が有名だと思っています。草餅と云う点では我が葛飾柴又の「とらや」以上か同等の有名店です。草の取れないシーズンとそれに重なるお盆は長期休んでいます。潔いですね。
 中将餅本舗

 中庭テラス席でいただく

 當麻寺の二つ並ぶ塔

 當麻寺山門もご紹介

 この餅屋の南で二上山を貫いているのが竹ノ内街道です。司馬遼のお母さん方の実家が有ると云うことで彼にも身近な旧道で、彼の「街道を行く」と云う長編旅行記の原点と云うべき場所です。今も、當麻町内の道筋は保存されていて昔の面影が残っています。彼の云う「国宝クラスの街道」は売店なども無いのも好感が持てます。
 竹ノ内街道

 ここから暫く南下すると西から現代の竹ノ内街道が山を越えてきます。南阪奈道路です。これから先では葛城山系を大跨ぎする工作物が無く、文頭に記載した八ヶ岳山系に似てきます。大阪側で見られるような大形看板も無く、廃土業者もおとなしくひっそりと仕事をなさっているのも景観を保っています。
 八ヶ岳に似るか

 笛吹神社に近づくと 六地蔵が道の真ん中に

 拝殿にお参りせよ・・・と看板があるのが笛吹神社(葛木坐火雷神社)です。何故かというと近頃「鬼滅の刃」という漫画の舞台になったことがあり、漫画信者がコスプレスタイルで写真だけを撮って帰ってしまうからだという。
  神社では拝むべし

 創建は神代とも神武天皇の御代とも伝えられるが詳らかでない。火雷大神が火の神様であることから、火を扱う職業(飲食業・製造業・工場)や消防関係の崇敬を集めている。又、天香山命の御神徳から笛やフルート、尺八等楽器の上達を願う方の崇敬が篤く、全国各地から奉納演奏に来られる方も多い。
 なぜか大砲が飾られている B29でも打ち落とす気か

 さらに山麓バイパスを少し進むと九品寺です。道端に収穫した稲を棒状に積み上げて干している風景は近頃あまり見ない。呼び名を忘れたが昔の旧河内にもよく見られた。それが見える辻を少し西へ上がると九品寺です。
  九品寺の表札か

 九品寺はサンスクリット語で、その意味は布教でいう上品・中品・下品で、人間の品格をあらわしています。上品の中にも上中下があって中品や下品にもそれぞれ上中下があります。全部で九つの品があるので九品と名づけられています。その九品寺のご本尊は木造阿弥陀如来像で、国の重要文化財に指定されています。いつか正月前に訪れた時本堂の前にダイダイが積み上げてられていて、お好きに持ち帰れと・・・沢山頂くと強欲だし使いようが無いので一個いただいた記憶があります。門前の庭園と本堂を取り巻く石像が立派でした。白洲正子はここで一泊してその思い出を「かくれ里」に執筆しています。
  庭園が見事です

 お隣は一言さん
 大和、御所周辺の人は親しみを込めて「いちごんさん」と呼ぶ一言主神社はまるで九品寺と領地を取り合っているようです。しかし、一言さんの方が古く、仁徳帝の妃磐の姫が幼少時過ごした宮後が残っているのが一言さん。社前の銀杏の大樹は愚僧が知る限り大和一番の古木です。数年前に枯れかかった時には樹木医の偉大さを思い知った程に見事に復活しました。雄略天皇葛城山に狩をされた時に、一言主が顕現されました。その時の次第が『古事記』『日本書紀』に伝えられている。雄略帝は仁徳帝の皇女である草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめ の ひめみこ)が后で、そのくさかと河内の「日下」(くさか)となぞらえて、愚僧が親しみを持つ神社の一つです。
 樹齢千年を超す銀杏

 樹木医による治療

 本堂

 綏靖葛城高丘宮跡

 同説明板

 道の駅で 一息抜きましょう 入れ替え予定

 御所JAの営む直販所が二カ所にあります。一つは櫛羅に、もう一つは一言さんのさらに南へ走ったこのバイパスのピーク辺りです。何年か前に一度だけMTBで走ったことがありますが、この辺りでは降りて引いておりました。写真の葛上農産物直売所には月一程通っています。仏壇用の高野槙の原木を安価で買うことが出来るためです。
  槙を供えました

 そして地元産の柑橘系ミカンや柿が安いこと他所から運ばれてきた芋類も質が良く求め孫に与えています。最近は特に上級生になった孫娘は騙されてくれなくなり、スルメの方が良いと云うが御所JAでスルメは少々困難な直販物です。

 御所柿も手に入りました 世間で云うほど美味くは無かった 

  高天の広大な大地は、記紀に登場する天孫降臨神話の舞台となったところではないかと言い伝えられています。先ほどの道の駅から少し進むと高天彦神社の矢印が見えてきます。

 ここ辺りから急峻です

 右に折れてさらに急峻な坂を上がると金剛登山の奈良側の起点の一つ郵便道のスタート地点が高天彦神社です。神社は古代豪族、葛城氏の最高神で、古事記日本書紀の中で出雲へ国譲りのための使者を命令した高皇産霊神を祀っています。短いですが鳥居前の杉並木が良い雰囲気を醸し出しています。社を左に見て進むと金剛登山道の郵便道で、昭和10年から終戦まで御所の郵便局員金剛山頂の社へ毎日郵便物を届けた道です。
 高天彦神社参道

  郵便道

 ここから、右に折れて一キロほど進むと高天彦橋本院に出ます。橋本院は葛城修験宗の根本道場として役の小角(634から701年)の修業した寺でもあった。

  橋本院庭園

 後に高天山登拝の為この地を訪れた行基菩薩が霊地であることを感じ一精舎を建て一心に冥応し祈ったところ、或る日の事、念想中に容体より光を放ち香気漂う十一面観音菩薩のお姿が現われこの霊応に深く感じさらに修業を続け、困難と苦悩に屈することなく祈念し続けたとか。人々は、この姿に高天上人と呼び尊敬した。ここも白洲正子が訪れています。  

 十一面観音像が納められているとか

 高天原をピークに旧国道方向へ出るとこの旅の終着地、大和の名門豪族である鴨族の守護神を祀った高鴨神社です。弥生中期、この地から鴨の一族はひろく全国に分布してゆき、各地で鴨族の神を祀りました。中でも京都の賀茂神社は有名ですが、高鴨神社はそれら賀茂社の総社にあたります。
  高鴨神社 鳥居より拝殿方向を臨む

 秋の紅葉シーズンは特に美しいが、神社の神域は鉱脈の上にあるとも云われ、多くの「気」が出ていることでも有名だとかで夏場に参詣されますと、放生池と共に涼しく感じるというがその気配は十分感じられます。

 放生池から

 そば小舎

 神社左にはそば小舎があり挽き立ての蕎麦が頂けるし、挽いたそば糟ももらえる。愚僧はそのそば糟をもらって堆肥にすることもある。

 鴨南蛮 放生池の鴨とは無関係だそうです

 山麓バイパス沿いにあって唯一食事らしいものが喰える店なので重宝します。
 風の森神社 手前左が愛車のトレンクル

 山麓バイパスはここからさらに南進して五條市に入りやがてどこが終点かどうか不明のままに吉野川に吸い込まれます。後は、柿か和歌山か・・・と続きますが今回の旅はこの辺でお終いとします。その舞台に相応しいのが風の森神社でしょう。あまりにもさっぱりした社ですが、前に広がるのは金剛葛城とそこから吹き下ろす風で充分でしょう。旧高野街道の風の森峠にあるこの社のご祭神は「志那都比古神」という風の神様で、日本書紀にある国生み伝説の中で、伊耶那岐命イザナギ)が国土にかかっている朝霧を息吹により払ったときに生まれた神とされています。また、この地は日本の水稲栽培発祥の地と言われており、風の神は五穀豊穣、風水害から守る農業神として祀られています。

 雪景色の風の森

 當麻から御所の風の森まで山麓バイパス沿いに点在する愚僧の穴場的スポットを紹介するこの旅は、風が吹き下ろす森で終章を迎えました。社寺仏閣と噂話のような伝説的神々の活躍の痕跡巡りは誠に楽しいもので、四季折々の姿も楽しみの一つです。
 森のが七種の酒になる

 槙を買いに行った山麓バイパスですが、何回は部分的にご紹介しておりましたのがこの際に纏めて記載しました。随分以前の写真も混ざっていますが寺や神社が位置的に移動したとは聞いておりませんので、古い写真もご容赦ください。

 山ろくを バイクで無理だが 記憶にて  <偐山頭火

 
 

月初のお参り

 月参りに行って来ました。供えものは槙ですが、先月の分もまだ充分使えそうな状態です。ここ数ヶ月木から切った状態の槙を買ってきて自分で供え物に仕上げています。親父のお墓の供物を値切るわけではありませんが、木の枝だと二本で150円、花屋で買うと供え物用槙が二本で900円です。弘法大師に云わせると「花屋が儲かるだけ」だから槙で良い、更に槙も枝で買うと花屋さんが設ける余地がありませんですかな。
 槙を供えて

 帰路お寺さんの前を通ると報恩講の知らが掲示されています。お寺関係のこの手行事にはあまり関係なく生きていましたが、親父の死後墓を持った関係(分家でしたので)で縁が結ばれてしまい今は「南無阿弥陀仏」とお経を唱えています。俺はクリスチャンだったと愚息に、関わりも無い宗教を息子に背負わせる気が無いのでこれで良いのだと思います。もっとも、息子が仏教以外の宗教に進むと更にややっこしくなりますね。
 報恩講の知らせ

 宗教界では神父とか住職は、男信徒に同じ信徒を嫁に撮らせることを無理にさせなくても他宗の女性でも引き込んで信徒になる(昔話かも)。むしろ女性を他の宗教信者と結婚させれば自分の宗派の人間が減る・・・(女房が旦那になじむ)との理屈で信徒内の結婚を画策すると言うのが教会等の神父・牧師・住職と呼ばれる人間の思考だと言うことらきいたことがある。政治家に似ている。
 近くの公園では桜も見頃か

 ややっこしい話になりました。要は「共同体」と呼ばれる集まりが、いかにして存続を図るかと言うことで、信者を増やすと言うより減らさないと言うことらしい(ある牧師談)。もっとも、お彼岸、お花祭り、クリスマスにイースター等々世界中で宗教行事を上手く取り込んで、一番儲けているのは宗教では無くて「お菓子屋さんに花屋さん」のようでありますね。教団や会社そして信者と従業員に祝福アレ!!かな。
 ややこしい アーメンソーメン クリスマス  <偐山頭火