最近元総理が、自派の選挙活動中に銃撃されて亡くなった場所として「奈良」と「大和西大寺駅前」そして「秋篠川」が新聞テレビ画面を賑わしています。今回の事件が発生する以前から、秋篠寺の美しさとその後背に隠された怨霊を幾度となく紹介していますが、昨日所用で付近を通ることがあったので重なる部分もありますが、再掲とします。
白昼安倍君が殺された現場 不動産屋の看板が一番儲けたか
病後大凡半年ぶりのサイクリングに選んだ場所はあまり適当とは云えないのですが、行きがかり上こう言う結果に。秋篠は平城宮跡の西の端を流れる秋篠川の西岸にあります。白洲正子の「十一面観音巡礼 秋篠のあたり」によりますと、秋篠川は押熊(オクシマ)という上流で流れを発し、平城宮を過ぎた辺りで佐保川と合流する小川です。オシクマとは一番奥の狭い土地・・・と云う意味があるようで筆者白洲は地元の人に問うて押熊王子のお墓に辿り着く。
押熊王子の墓が押熊八幡神社移転されて祀られている
押熊王子は応神天皇の異母兄弟で、継母神功皇后の軍と戦い宇治川に身を投げて死んだ悲劇の王子と云れているのもそのせいでしょうか。追い詰められた王子の奧津城・・・と白洲は当時語っていますが、開発が進み今では裏側には大衆浴場やラーメン屋さんが立ち並んでします。しかし、基本形は変わらす押熊から始まる秋篠川の流れの脇には「佐紀のたたなみ」と呼ばれる墳丘が続き押熊王子を死に追いやった神功皇后の御陵や稱徳天皇高野陵、成務天皇陵が川の東岸に続いています。川が何か境になっているような気がします。白洲の著書では昔の人は秋篠川のことを「境の川」「サイ川」とも呼んでおり、秋篠川から先(西)は別の世界であったに違いないと記しています。
神功皇后陵
稱徳天皇高野陵 奈良競輪場に一番近い御陵、勿論賭博禁止とは書かれていません
秋篠寺は無料で入れる東門から南門までの間だけでも秋篠寺(智麻呂画伯挿絵)ら
しい様子はうかがえます。今回もこの手法で楽しみましょう。その前に付近の様子から見ると奈良県営競輪場が数十メートル先にあり、少し古寺の雰囲気とは違うとも感じられます。
智麻呂画伯による秋篠寺南門付近 苔の海
寺歴ははっきりとはせず、秋篠氏の氏寺だったと云われています。1135年の大火で東西の塔や金堂が焼け落ち、焼け残った講堂を現在の本堂としている。この後鎌倉時代に再建された姿そのままで廃仏毀釈を迎えた秋篠寺はさらに荒廃し堂守もいない時もあったようです。その荒廃した木立の間に波のように苔むす様を「苔の海」と五木寛之(百寺巡礼)が表現する、ある種の芸術的な雰囲気を漂わせています。
御霊神社
秋篠寺南門の直ぐ脇にあるのが御霊神社。ご祭神は、「八所御霊」として非業の死、不慮の死を遂げられた人物として平安時代にその「怨霊」が恐れられた崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人、橘逸勢、文屋宮田麻呂、藤原広嗣、吉備大臣、また火雷神(菅原道真とされることもあります)が祀られています。当時は皇位継承によって多くの犠牲者を出しています。秋篠寺の地主神がその人々の鎮魂を兼ねたものであったのであろうと白洲は推論しています。そして「あきしの」の名は美しいけれども、その歴史は暗いなぞに包まれている・・・としています。 河内温泉大学図書館収蔵秋篠寺関係者図表
因果応報か・・・と思案しつつ大極殿脇から生駒山
最近祈念碑を建てると騒がしい大和西大寺駅前。咄嗟に思い付いて「国葬」とやってみたものの「酷葬」と云われるまで得体の知れない宗教団体の内部抗争(テッペンと下っ端の差は歴然ですが)の様な銃撃の事情が透けて見え出しました。地元奈良市長が都市計画道路を計画変更して建てると云っていた、碑は取り下げるようです。後世に亘って物笑いの種になるような、道路計画の変更は都市計画審議会にかけても通過しないでしょう。(と願っていました)また、間違っても御霊神社に一人加えられることも無いでしょう。
昨日は現場に供え物はしないようにとのお札も建っていました。宮内庁の仕きたりに沿ったものかどうかは知りませんが、道端に捨てられた花がかわいそうに思っていました。
さて、いい時間になりましたボチボチ平城宮跡の駐車場まで戻り、平宗の柿の葉寿司でも買って帰りましょう。