ブラタモリと云うNHKにしては人気番組がありました。ありましたというのは、今年に入って消えたと思っていたら、最近復活して「東海道五十七次」という三日連続の構成で放送されていました。NHKと云えばニュース番組と六角精児の鉄道もの、そして七十二時間とお相撲番組しか見ない愚僧にとっては、ブラタモリもよく視る番組です。11月上旬に放送された「東海道“五十七次”の旅 ~行けばわかるさ 徳川の思惑~」の愚僧流付け足しのような記事を過去の写真などを取り交えてタモリの欠宿(?)を巡って見ようと思います。題すれば「タモリの見残し東海道」とでも云いましょうか。それでは、タモリ流の番組構成に従って綴って参ります。番組では東海道の終点京三条大橋から始まります。実際の橋は石作だったが浮世絵では木製になっていると浮世絵のアラ探しから入ります。この手の芸術作品の作り事は万葉集でも、さも実際に現場におったように歌わている(例:紅葉の竜田川の錦)のようによくあることだと思います。遠い歴史に踏み込まずも島崎藤村の「椰子の実」でも藤村は舞台となっている伊良湖岬に行ったことはなく、柳田国男の実体験を聞いて詩を作ったと言われるので良くある話なのでしょう。
木造製三条大橋
長くなりました、話をタモリに戻しましょう。テレビでは東海道五十七次となっていましたが、江戸期に入って経済の中心は浪速となり京から浪速すなわち大坂へと延伸された結果五十七次となったという。石清水、枚方、守口が延伸されたと話は展開します。
エジソン祈念碑
淀城から石清水八幡宮まではほんの僅か、宇治川、桂川そして木津川の流れの一番先にある。戦の神として永く崇められており諸藩の大名からの奉納品で飾り付けられた神社として有名です。しかし、エジソンの電球のフィラメント発祥の地、日本の飛行機(ゴム動力)発祥の地としての飛行神社もあります。勿論これらは番組では飛ばしていますが、タモリに語らせると歓んだことでしょう。
飛行神社の由来
零戦のプロペラとか 中央やや歪んでいます
この次にいきなり枚方宿へと飛びますが、愚僧の新東海道ではタモリ流に云うと五十八次と云える橋本の宿で休息です。ここは娼家風の風情を残した家並みが続き、旅の上がり近くで疲れを癒やしたのか増やしたのか?もう少しで枚方宿へと入ります。愚僧の取材時は素泊まりの看板もありました。
橋本宿の家並み
家康が淀城を西国外様大名への備えと番組でも語っていました。その備えが最後の十五代徳川慶喜将軍によって変えられたのが五十九次に当たる「樟葉台場」です。攘夷派の長州藩等が都をめがけて進軍するとして、防御の砦を築いたのが「楠葉のお台場」と云われています。表向きは、外国船が淀川を遡るのを討ち取ると云うが、蒸気船は川底が浅くて進めませんので表向きの理由。また、台場の中を「京街道」が貫通しているところから、大坂と都を行き来する浪士達の検問所でもあったと、研究家は述べておられます。
樟葉台場跡
発掘現場風景
そして枚方の宿に続いて守口の宿を過ぎて大坂へと入ります。江戸日本橋に始まり京三条大橋経由大坂も高麗橋で五十七次が終わるという、話としては筋というか落ちがついて番組も終わります。
守口の宿 文禄堤
この堤は、文禄3年(1594年)に伏見城を築いた豊臣秀吉が、京都・大坂を結ぶ最短陸路として、文禄5年(1596年)に整備させたものです。これが街道となりで後に東海道と呼ばれるようになり、江戸時代も受け継がれましたました。
宿場内の高札のつもり?
さて、番組中で枚方宿が大きな商業都市だ・・・とさらりと言っていましたが、ここは京の東寺から始まる「高野街道」との結節点に当たるため並大抵以上の賑わいがあったのではと愚僧は推察いたします。また、ランプウエイを少し北に行くと「西国街道」とも結ばれており今で云う巨大なインターチェンジの賑わいのあった宿でありましょう。
ブラタモリと云うNHKとしては視聴率を稼ぐ番組の再開というのか時に放送するというのかハッキリしない放送でしたが、押さえる所はきっちちと押さえつつ新ネタを加味した良い番組でした。その気になれば幾らでもネタを広げられるお話だけに作り手としては、そのはやる気を押さえるのが苦しい番組だったように思え、そこが返って面白い所でありました。
次回が楽しみです。