ここで遣唐使船のおさらいを。釈迦に説法となっている場合は暖かいお心で、読み飛ばしてください。630年から894年にかけて、唐の先進的な文物を摂取するために派遣された公式の使節のことで。使節団には、高向玄理(たかむくのくろまろ)、山上憶良、吉備真備、最澄、空海等の貴族の子弟や学問僧が含まれています。帰国後それぞれが日本の政治・文化の発展に大きな貢献をしました。
しかし、生還率3分の一(諸説あります)という危険な渡航でもあり、往路が成功しても必ず日本に帰った人々ばかりではありません。彼の地で成功した安部仲麿はまだしも、唐の地を踏むこと無く大海原消えた若者が数多くいます。「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」この歌は、唐で高官にまで登りつめるが遂に帰国することが出来無かった「阿倍仲麿」が唐の地で詠った歌です。
さて、旅の冒頭「坊津」を訪れましたのは、この遣唐使の3航路ある内の一つの出発地であったことは既に記しました。この南島路と呼ばれる航路から山上憶良も出発して、研鑽の後帰国。そして様々な役職を重ね「筑前守」という役職で大宰府に赴任します。遣唐使として唐に向かった海路を、今回は高職に就くために難波津から筑前へと向かいました。
大宰府には、憶良の瓜食めば・・・で始まる「子等を思ふ歌」の歌碑がありました。また、「貧窮問答歌」でも彼独自の色合いがうかがえます。社会派とも庶民派とも云われる憶良は、私にとっても近しい歌人の一人であります。太宰師(だざいのそち=最高位)大伴旅人などの歌碑、合わせて数百も建っていると言う大宰府は、日本国九州支社の行政・文化の中心都市でありました。
今回訪れたのは日曜日、九州各県からの自家用車、日本や中国韓国からの団体バスでごった返しておりました。九州文化圏における「奈良・京都」という位置でもあるのかと、勝手に納得しつつ、車を降りてトレンクルで街を散歩して楽しませてもらいました。