河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

崇仏争論の果てに 河内国渋川郡の物部氏の跡を行く

 ここ暫く法隆寺四天王寺などの聖徳太子の足跡を訪れています。そこで今回は、視点を変えて蘇我入鹿聖徳太子を先鋒とした仏教加護派に対し、廃仏派として抗争に敗れ歴史から抹殺された「物部氏」の立場から、彼ら一族に関する史跡を巡ってきました。場所は河内国渋川郡、今の八尾市太子堂及び植松周辺です。
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 大聖勝軍寺

 欽明天皇のころに伝来した仏教(552年)の受容に関して、臣下達の間で崇仏争論(すうぶつそうろん)が生じました。古くより石上神宮氏神としてきた廃仏派の物部氏と仏教加護派の蘇我氏です。両派が武力でぶつかり合ったのが丁未の乱(ていびのらん)です。この戦には幼少にもかかわらず、既に仏教に帰依していた聖徳太子厩戸皇子)も参戦しています。
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大和の海石榴市初瀬川に建つ仏教伝来之地碑

 河内国渋川郡の守屋の館へ進軍した蘇我馬子(仏教派)に対して、籠城した物部守屋(廃仏派)の抵抗は強固、蘇我軍にとって戦況は思わしくありません(587年)。永年にわたって天皇家を軍事力で支えてきた物部氏が有利で、守屋自らも木に登り矢を射って戦ったと伝わっています。この戦況下で、聖徳太子が「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」(日本書紀)と祈願したという。この直後守屋に自軍の矢(諸説有)が命中し蘇我軍の勝利となりました。
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四天王に囲まれた聖徳太子象(大聖勝軍寺)

 戦後間もなく四天王を祭るための寺院として摂津国難波(大阪市天王寺区)の四天王寺とともに、大聖勝軍寺(だいせいしょうぐんじ)の太子堂が建立されました(594年)。大聖勝軍寺は奈良街道に面して建つ高野山真言宗の仏教寺院、本尊は植髪太子(聖徳太子)です。 聖徳太子建立三太子の一つで、叡福寺の「上の太子」、野中寺の「中の太子」に対して、「下の太子」と呼ばれていますが、地元八尾では単に「太子堂」と呼ばれているそうです。
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現本堂の建った頃、前住職とは飲み仲間でした。「こんなぶっさいくな本堂に・・・」と悪口を言ったものですが、今見ると鉄筋造りも自然に見えます。

 門前に秦河勝(はたのかわかつ)が討ち取った守屋の首を洗ったと伝わる「守屋池(守屋首洗池)」があり、東へ数十メートルには守屋の墓があります。神道信仰を貫き廃仏派として仏教徒と戦ったと、守屋の墓の周りには全国の神社がこぞって玉垣を寄進しています。その奈良街道を挟んだ南の市立図書館の入口脇には、物部守屋が射られた矢を埋めたた鏑矢塚があります。
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守屋池
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 守屋の墓
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全国の神社の支持絶大です。
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鏑矢塚

 守屋の渋河の屋敷の跡という渋川神社は奈良街道から少し北、関西本線八尾駅の南にあります。旧大和川の自然堤防上にあるのでしょう。大阪府天然記念物の楠が樹齢千年と云いますが、守屋の時代を見た証人とは云えないのが残念です。
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渋川神社
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大阪府天然記念物樹齢千年の楠
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大和川の自然堤防に建つ稲荷社

 関西本線の線路沿い西へ数百メートルの場所の渋川天神社(しぶかわてんじんじゃ)辺りは物部氏別業と云われ、発掘調査の資料から渋川寺があったともいわれています。信念を貫いて殉じたとは云え、少々もの悲しすぎる社です。この様に半径数百メートルの範囲内に斯様に物部氏一族にかかわる色濃い痕跡があります。その割りには、敗者の常と云いますか歴史から消し去られているような物部氏、「もしも」は歴史に無いと云いますが「もし物部が勝っていたら」と想像するのもいいのではないでしょうか。
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渋川天神社
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 参考文献:「古事記日本書紀」坂本勝監修(青春出版社

 輪廻
 仏法が 勝ったつもりが 廃仏に 輪廻は回る 神も仏も <偐山頭火>