河内温泉大学

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神話と歴史のはざまを行く 斉明天皇越智崗上陵

 奈良県内で一番多くの古代遺跡を誇る場所と云えば「明日香村」でしょう。奈良市内いや斑鳩と言えどもこれらは派生的の場所、歴史観光の名所と言えば異論もありましょうが、一応皆さん納得されるはず。次なる世界文化遺産登録へ向けての動きもあるようですね。
 石舞台、甘樫丘、橘寺の現代に伝わる物証に加えて、身近な聖徳太子大化の改新等史実としても検証可能な時代でもあります。この時代から少し遡ると、神話の世界ではないかと云われる世界です。明治維新で新政府により天皇天皇中心の歴史・体制がにわかに作られ、それが一般大衆を悲劇へと導いた反動からか第二次世界大戦後は「神話」を軽んじる傾向にあります。
 文学と見てもギリシャ神話は文学的でロマンがあって良い…が日本の神話には抵抗感があるという一つの理由でしょう。私もその一人でしたが、しかし神話は神話であって史実や歴史とは違うが、神話が作り出された時代や社会の背景が神話に書き込まれていると見れば日本神話も良いのではないか。と今は考えるようになりました。偉そうに言うがこれも近年よく読む白洲正子の「かくれ里」等の著作からの受け売りです。
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 今回訪れたのは37代斉明(さいめい)天皇陵です。斉明天皇(655ー661)は35代皇極天皇(642ー645)が重祚(史上初)したもので女帝(史上二人目)です。重祚と言うことですから当然譲位していますから、譲位でも史上初と言えます。この時代の著名な人を例に出すと、聖徳太子が亡くなったのが622年ですのでその少し後を生きた人ですね。蘇我氏対反蘇我氏との政権争いの中で立ち回った女性ですが、百済救援進発の直前朝倉橘広庭宮で亡くなり、娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)と合葬されたとされる。その陵墓が奈良県高市郡高取町の越智崗上陵で、麓から見上げると急な階段を見上げて参拝を断念しかかりましたが何とか海抜300メートル程を”登頂”です。(奈良県高市郡明日香村大字越の牽牛子塚古墳斉明天皇陵という説もあります)
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 地図で場所の確認をして後はナビ任せ、といういつものパターンでした。感覚的には御所市だとばかり思っていましたら、高取町の西の端でありました。娘の間人皇女との合葬ですが、斉明陵の少し下には天智天皇の皇女、大田皇女の陵が先に見えてくる。
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  大田皇女は天武天皇との間に大津皇子と大伯皇女を生んでいる。その天智天皇の母は斉明天皇(宝皇女)であります。複雑すぎて書き表しにくい人物相関、同一人物でも名が変わっていることも益々複雑化していますね。
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 1300年後の今の天皇家が直面している、譲位、女系天皇問題を何とか解決した先人として斉明天皇はシンボル的な人だと陵全体を見上げてながら感じていました。
 御所市との境を流れる蘇我川沿いに少し北へ走ると「郡界橋」、ここを左折したら神武天皇が即位した場所と云われる「神武天皇社」です。今回は孝昭天皇陵ともう一つ磐園参考陵見学を予定していますので参拝のみ。
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  質素な社で、後に作られた橿原神宮の荘厳さと比するとこの落差は何なんだ…と思わず口ずさんでしまいます。
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 更に神話の世界へと足を踏み込みましょう。御所には天皇とされている陵が6代孝安天皇陵古墳と5代孝昭天皇陵古墳の二つあります。この内未見でした5代孝昭天皇陵は国道24号と葛城川の交点の西にあります。自然の地形を利用したような小高い古墳ですが、拝所は麓に設けられているので容易く参れました。
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  多分拝所へ続く参道だったであろう場所は、剔られて道になっているのがこの陵の立ち位置を現しているような。脇には取って付けたような「孝照神社」が少し笑いを誘います。
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 次は参考とした地図は「武烈天皇陵参考地」となっていた「磐園陵参考地」です。武烈天皇陵は以前訪問していますが、香芝にあります。大変個性が強烈で横暴な天皇として有名です。それはそれで、見聞を広めるという意味でもこの参考地を見学しておきたかったのですが、現地ではそれらしき表記もありません。評判が良くないと云っても有名な天皇ですから、地元の手で看板程度は…と期待していました。
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  通りすがりの人に尋ねるも、**天皇だが武烈ではないと仰る。帰宅後の調べですが、23代顕宗天皇陵の参考地として宮内庁が管理しているとのことです。
 
 <脇道>
 行政ものの地図等は版下原稿の段階で、各自治体の広報(総務課)あたりに依頼して校正しています。新しい地形地物(建物や道路等)があれが記入して欲しい、また観光地や名所等についても同様の依頼をして訂正し出版されます。こうした協力は、地元にも益があるため全国的に無償で行われているはずです。(決して原稿料等を貰っていないでしょう)
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 地図版下制作者、地元の自治体そして編集者のチェックをすり抜けた「武烈天皇御陵」という誤記が出版されてしまったようですね。
 顕宗天皇については、以前の旅行記にリンクを張りますので参考にしてください。
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 冒頭に少し記しましたが、神話と歴史に関しては曖昧な部分も多くあります。どちらに傾くかは、どちらに軸足を置くかで大きく違ってくるのでしょう。その丁度バランス点、剣が峰の様な場所が本日訪れた御所あたりでしょうか。
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  欠史八代(九代)と言われる、記紀に記載が少ない天皇や周りの人々の面影を伝えるのが御所あたり。
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  雄略天皇一言主の神との出会いの場である一言主神社(写真)、仁徳天皇の后磐之姫の生まれ住んだ葛城の髙宮そしてその伯父とも言われる竹内宿禰の巨大な墓(宮山古墳)等が秋津洲のように豊穣な瑞穂の田に浮かんでいる様にも見えます。
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 葛城一族と何らかの関係深い一族が権力を握り、その権力の中枢がやがて明日香へそして葛城の山を越えて河内へと向かい、1300年後には世界資産になろうとは往時の人は誰も想像だに出来なかったでしょう。
 
 トンボ
 明日香でも 河内野でも 秋津洲 稲田の中に 群れるや蜻蛉 <偐山頭火