河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

ワカタケル身罷る 追記清寧天皇陵古墳

 新聞連載小説「ワカタケル」(308)「天と地」その48で大王(ワカタケル)は身罷られた。呪い殺されてと言う方が小説の筋からすると正しい表現です。太后ワカクサカの分身であるヰト(井斗)がワカクサカを斬り殺したワカタケルを死なせます。
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 前後のお話は、新聞紙面に譲ります。この後ヰトは稗田阿礼という名を継ぎ、古代のことどもを諸家の古老から聞いて覚えて次代に伝えるのを仕事とする・・・と話は続きます。
 当初「読みにくいと作者が弁明 日経新聞連載小説「ワカタケル」の雄略天皇陵を行く」と表してこの小説をご紹介した、今も分かりにくさは残るものの引き込まれて読み続けています。ボチボチ終章にかかりましたので、改めて評価した上で、稗田阿礼主祭神とする大和郡山の賣太神社及び周辺を銀輪散歩したのでご紹介します。
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 いつも通り、車を法隆寺裏の町営駐車場へ。ここでMTBを降ろして銀輪行です。本日は目的地が決まっていて行程が読めるので、体力配分も予め予想が付く。所謂楽な行程、東へ向かって走り大和郡山城を遙か北に見つつ二本目の川が佐保川です。この辺りで北へ進むと大和郡山市の稗田環濠集落へ、約30分程度で到着です。後述しますが、何やら祭に向けての準備が進んでいるようです。
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 初めてここを訪れたのが2012年けん家持氏との、太安万侶墳見学の帰りですが、神社の景色は全く変化が無く当然という顔で鳥居が建っています。ただし、環濠を取り巻く景色は多少変化している程度ですね。古事記編纂当時からの時の流れを受け継いでいるかのようです。
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 神社の茂みの中に見付けたのが稗田阿礼に相応しい石碑と、阿礼祭にまつわるお話し。神社冒頭に祭の準備と記したのはこの「阿礼祭」の開催を知らせるポスターです。ポスターによると8月16日に開催される90回目と言うから、伝統のある祭と区分されても良い。この祭は、児童文学者の久留島武彦が、アンデルセンに匹敵し「話の神様」は稗田阿礼が最もふさわしいと、全国各地の童話家の協力を得て1930年(昭和5年)に始めたものとか。
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  祭に主旨に賛同したという巌谷小波の句「言霊の景には秋なし神の森」という碑もそえられています。
 今年の阿礼祭は例年になく賑やかになるかも・・・。
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 主たる目的はここまで、このまま帰るには惜しいと郡山市内へバイクを走らせます。JR線を越えると大外堀が修景されています。奈良市内にお城がなかったのだから、奈良や大和を睨みつけるにはこの位も必要かと思う程お城は大きい。
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 お城に向かって碁盤の目のように整備された街路は往時の面影を伝えます。*川という高級料亭の前では女将が客待ちなんでしょうか、客の前ではさぞかし美しいんだろうとオオカミの様に厳しい女将さんをやり過ごして、菊屋を目差します。義姉が健在の頃訪れると買ってくれたという愚妻への土産を求める。
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 豊臣秀吉の弟秀長が茶会で兄をもてなしたという餅が、今もこの店に伝わるという。希代の英雄と一族が果てても、餅は残るということでしょうか。
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 城郭を大きく迂回して南側に出るとその義姉が眠る墓。前方後円墳を再利用して作った墓地、墳丘の上に墓石を置く物だから向きがバラバラで一部は傾いている。やっとの思いでお墓を探して草を抜くなどして清掃のつもり。
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 金魚畑の農道をすり抜けて富雄川に差し掛かると慈光院の杜を右に見て更に走ると斑鳩町への標識脇に建つ。この辺りから金剛・葛城山系を眺めるのも、今流に言えばビューポイントです。法起寺の塔をシルエットに遠く葛城山が見えます。葛城山の麓で一言主の神と絡んだワカタケルは今はもういない・・・。
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 本日も朝刊ではワカタケルの死後について語っています。作者の言うようにカタカナの名前や難しい詩、興味があるものの取っつきにくき作品だと思いつつ約10ケ月程お付き合いしてしまいました。私の結論としては面白かったと言えます。小説ですから(むしろ史実がない)作者の思うままに描かれていますが、大王・天皇であろうが人間として本能の限り存在を示しているところに共感を覚えました。
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 もう暫くでしょうが、大王はどの様な気持ちで読んでおられるのかインタビューしてみたいものです。
 
 強者
 勝者かと 思う間もなく 露と消え 強者共は 夢のまた餅 <偐山頭火
 
  追記:雄略天皇を次いだ清寧天皇陵古墳行を記します。
  第22代清寧天皇陵古墳は羽曳野市向野にあります。大きな道を挟んだ東には白鳥陵(大和尊陵古墳)が並んでいるように配置されています。
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