河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

灼熱の中 堺旧市街他を輪行

 兵庫の竹田城を「東洋のマチュピチ」と言ってみたり、吹割の滝を「東洋のナイアガラ」等と呼ぶ連中に云わせると「東洋のベニス」らしい堺の旧市街を銀輪行してきました。
東洋(日本)の**と言う表現に至っては何とも想像力が無く、ないもの強請りの偽物主義者の様にも見えます。堺は堺、逆にベニスを西洋の堺だとでも言ってほしいのだが。
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 そんなぼやきは年寄りの証拠だと一笑に付されつつ、灼熱地獄が予想される26日、先ずは大和川遠里小野橋で渡河して堺へ入ります。堺へ入るなり先行する友人けん家持氏をリードするつもりで彼を交わしたが、大いなる間違いを背後から指摘される。南海線阪堺線の軌道を間違えてて西へ入るところで、東に切り込んだらしい。堺行を提案した者としては恥ずかしい限りです。
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 西へ入って暫くすると七道駅が見えてきます。駅西のロータリーに目的物が二つ揃っています。一つは河口慧海という黄檗宗の僧侶で、仏典を求めて一人当時鎖国されていたチベットに潜入した英傑です。彼は、この近くの桶屋の倅として生まれ静学院という寺子屋で学び、同志社英学校に入るも経済的に中退し仏門に入る。学校法人同志社としては惜しい人材を手放したことになる。
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 その生家跡には石碑が建つ。学んだ清学院も歴史館として保存されています。もしも、と言う話が許されるなら、同志社を卒業して西洋坊主になっていたら、彼はゴルゴダの丘へイエスが磔になった十字架を探しに行ったかもしれません。しかし、彼は仏門に入りチベットへ仏典を求める大冒険を成し遂げます。後の功績はリンクに譲りますが、最近の報道では経由地のネパールに新しく彼の功績をたたえるモニュメントが出来るそうです。
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 今一つ建碑されているのが。放鳥銃限定記念碑と鉄砲鍛冶射的場跡の碑、西洋伝来の鉄砲技術が堺で花咲かせ日本中に広まったとということを示しているようだ。しかし、物が鉄砲だけにと思うが、堺がなさなければ何処かで花咲いたことでしょう。と言うことで、深入りはしません。
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 この近辺には鉄砲鍛冶屋敷やそれにまつわる金属加工業や線香の老舗など、鉄砲等を主にした交易で栄えた堺を物語る建物が点在しています。
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 それらの東端を南北に沿って寺町が並んでいます。本願寺堺別院がお城のように見えるその脇にある覚応寺の河野鉄南という若い僧に、激しい恋心を燃え上がらせたのが与謝野晶子です。
ふるさとを恋うるそれよりやや熱き涙流れしその初めの日
の相手が鉄南だったのか鉄幹だったのか、それはフライデー無き明治期です。謎ですが今更それが誰であっても大きな問題ではありませんと、晶子は宣うでしょう。恋の様子はその道に大変くわしいけん家持氏のブログに譲ります。
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 その子はたち 櫛に流るる 黒髪の おごりの春の うつくしきかな 覚応寺晶子歌碑
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 与謝野晶子の生家跡を過ぎて愚僧の家人からの言いつけに付き合ってもらい、小島屋という芥子餅の老舗で土産を求めます。創業3百数十年と言いますから江戸時代初期でしょう。京都と違って大坂夏の陣先の大戦で焼き尽くされた堺ですから、その度に立ち上がる商人の心意気と言えば相当な物でしょう。物のはじまりみな堺・・・と言う気概が感じられます。
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 このあたりで正午頃、糧食主担のけん家持氏から小島屋の斜め向かいのレストランに入るとのこと。勿論異存は無くただ後ろに従ってレストランへ。階段で上がる彼と、エレベータで上がる愚僧との差で、異国人に道案内を請われる。何でも、堺東まで行きたいととの希望ですが歩いて目と鼻の先「自分の足で歩け・・・」がとっさに翻訳できず目の前のバス停で系統を探す。「21」番系統と言うことで案内を済ませて食事に。少々待たされて店の前に戻るが、彼女は既におらずにたぶん無事にバスに乗れたのでしょう。その後、開口(あぐち)神社経由で堺東駅前に出るが、出会うことは無かったので国際問題に発展することはまず無いでしょう。レストランの向かいには利晶の杜。
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 その開口神社にも与謝野晶子の歌碑があります。堺の中心部にあっては大きな面積を持つ神社で、たぶん多少は切り売りしているようだが、出来たらこのままでと思う都心の空閑です。ここから、堺東駅南の踏切を越えて方違神社へはけん家持のリクエスト。何でも、この神社に万葉歌碑があるのだがとんでもない(?)ところに歌が刻まれていて過日訪問した際に見落としているとのこと。
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 三国ヶ丘高校を過ぎて、反正天皇陵拝所から方違さんの前に出て、あれだ・・・と指さされるも見えるのは蕎麦屋の看板のみ。更に彼の立ち位置に立ってその方向を見ると、神社名を刻んだ石柱に「三国山 木末に住まう むささびの 鳥待つがごと 吾待ち痩せむ」(万葉集巻7-1367)とあります。けん家持によると三国山福井県の三国説もあり定まっていないという。歌はあなたを待って痩せる思いと言うらしいが、堺なら早く来ないと鉄砲で撃ってしまうよともとれないかな。
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 この辺りで小雨が降り出す。結果的には翌日の台風6号の先駆けだったようですが、灼熱地獄を輪行する二人にとっては恵みの雨です。
次なる目的地は仁徳天皇陵古墳脇に立つ磐之姫歌碑です。先の銀輪行でも仁徳天皇の后の歌碑が何故数本も並んでいるのかという個人的謎(?)を持っておりました。そこで、万葉集編纂に関わったけん家持氏に相談すると、彼も大変興味を持ったらしくこの輪行となった次第。だが、歌碑の前に立つなり謎は瞬く間に解消されます。
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 けん家持氏の大学の恩師犬養孝氏の揮毫の「ありつつも 君をば待たむ うちなびく わが黒髪に 霜の置くまでに」(万葉集巻2-87)をセンターに置き85、86、87、89番と並んでいるのは、万葉集第2巻の冒頭4首で、第1巻冒頭4首が雄略天皇の歌で、それぞれ古代の男性第一人者と女性第一人者だということがこの建碑の理由では無いかという。
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 浮気癖が多かった仁徳天皇への当てつけに、鬼のようなかみさんの歌を並べて鬼門封じ(方違さん)にしたという愚僧の推論は見事に外れたようでありました。それはそれで、仁徳家にとっては家内安全と言うことで、これからの世界遺産目当ての観光客にも身の恥を曝さずにすむと言うことです。これで、謎解きは終了。後は気の向くままに輪行しつつ河内へ戻ることとなります。
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古墳の世界遺産登録にもあまり関心が無いけん家持氏に宅造されかかったイタスケ古墳でも見ましょうかと誘い先導するも、間違って御廟山古墳へ。更に修正を加えたつもりが百舌鳥神社へ、と行方定まらないのはいつもの二人連れです。そのうちに良い時間となってきましたので、前方に見える葛城山と背後から受ける太陽光を当てに方向を定めて適当に走っていると中央環状の三原ロータリー付近に出る。
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 カキ氷が食べたい・・・というけん家持氏の要望だが、喫茶店何カ所か訪ねるもメニューにはおいていない。そこで、コンビニに入り冷凍庫にあるカキ氷様の水菓子を求めて店内ベンチで戴くことに。外気と内燃機関から発する熱気を一瞬で冷ませることが出来る。さあ、大和川を越えたら河内は目の前、本学周辺で生駒峰の麓を目指すけん家持氏と別れて帰り着くと走行距離は60キロ弱を指していた。
 
 癖
無くて七 浮気は八目と 仁徳が <浮気仁徳>