河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

西郷の西南戦争を予言した 花神ここに死す「大村益次郎卿殉難報國之碑」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

 明治維新は様々な「花」を一気に開花させて切り開くことの出来た新しい文明の開花であったと、司馬遼太郎は「花神」で書いています。花神とは中国で言う花咲爺さんの事だという。その花咲爺さんが大村益次郎こと村田蔵六です。長州の田舎医者の倅が、倒幕軍の総指揮官となり明治維新という大輪の花を咲かせた。その大村が京で刺客に討たれ、ここ大阪において療養の甲斐なく亡くなった。大阪には医者としての腕をみがいた適塾があったのも何かの縁でしょうか。

 彼の偉業を讃える大村益次郎卿殉難報國之碑の脇には国立大阪病院(機構と改称)があり、これも縁のわざかもしれません。碑と病院の東には八連隊という旧陸軍の部隊があった難波宮跡があります。この部隊を作ったのも大村益次郎、時に維新後これからは薩摩の西郷が反旗を翻すだろうと予想して、西を押さえるための大阪鎮台としてここに軍を置くと共に兵站基地として砲兵工廠を置いた。それらを見渡せる場所に立つのが殉難報國之碑です。

 坂本龍馬西郷隆盛桂小五郎など維新に輝き巨星のごとく語り継がれる英傑の中にあって目立たない大村益次郎であります。武士でもなく、人を切りつけたこともなくまして戦場に立ったことも無い。いわば目立たぬ存在でありながら彼無しではなし得なかった明治維新の陰のキーパーソンは、司馬遼曰わく薬罐に大目玉を付けた様な特徴的な顔で、維新百五十年後(大政奉還後)の日本の姿を大阪を通して見つめています。

 天王寺の赤松種苗へエンドウ豆の苗を買い求めに行き、帰路上町台地を通りかかった所、楓の紅葉した並木に隠れるような碑に引かれて車を置き散策しました。前記のような場所であるが故幅員も十二分に取られた並木道は見事です。碑では付近の老人達が落ち葉拾いをなされていました。ご苦労様です・・とお声がけして辞してまいりました。

 写真:大村益次郎碑、特徴的なお顔、病院と遺跡の間の並木道

 歴史
 人のかげ 名も無き偉人 事を為す <偐維新>