河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

城東区巡り「街中温泉銭湯と大坂城の知られざる遺跡」

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 日常使いしている温泉銭湯に自動車を留め、MTBを下ろして大坂城を目指します。距離にしたら3キロ程度ですが、結構ディープな町が続きます。先ずは、「八劔神社」(やつるぎ)。はっけん神社の方が通りが良いが、正式にはやつるぎと読みます。拝殿はガラス張りのモダンな神社です。

 八劔神社を通り抜けると、下町の長屋街が続きます。後に書きます、大阪砲兵工廠の従業員の住まいや、下請け工場群ですね。その中にあって異彩を放っているのが、仙酔庵という蕎麦屋さん、大きなお屋敷を改造しています。お庭も美しく落ち着ける蕎麦庵です。

 先を急ぎましょう。砲兵工廠跡地に建つのが松下幸之助が最初に立てた、OBPのビル群。これが出来るまでは、太閤さんへの畏敬から大坂城以上のビルを建てないというのが不文律でありましたが、今太閤と呼ばれた松下さんがこれを破りました。ビル群の隙間から大坂城ホールへ出ますと、「砲兵工廠跡」の石版があります。明治政府が日本の近代化のため軍備を整えようとした原点に当たります。

 砲兵工廠の正門跡と呼ばれる「筋鉄門」後には、レンガ作りの建物が今も残ります。何十年か前には、自衛隊の広報がここに置かれていて、小松基地視察の申し込みに行った事などをを思い出されます。この建物裏に続く平野川には、工場とのトンネルがあり製品の運搬に水路が使われていました。また、水路の掘削も近代化の一部で、街中には十字形に交差する水路もあります。先の戦争末期には、砲兵工廠はアメリカ軍の空襲の目標となった事は良く語り継がれています。

 少し横道に。紀伊半島から和歌山・奈良から大阪に入ったB-29は大阪城付近で爆弾を落とし、日本海へと抜け満州で給油して帰るコース。そこで戦争末期に、一部が大阪柏原市に移転します。二上山を超えた爆撃機は目標を捕捉する事が出来無いという事から。それが、現在ではジェテクト(元光洋精工)となっています。

 さて、街中の小さな食堂で昼飯をいただき、不動の湯へと戻ります。不動の湯では何時もの顔ぶれが、気持ちよさそうに湯浴み。私も、少々汗をかいた身体を流して、帰りました。

 写真:八劔神社、砲兵工廠石版、筋鉄門説明、トンネル跡、不動の湯脱衣場

 砲兵工廠跡
 ビルが建ち 観光客も 諸国から  <偐山頭火