醍醐天皇の治世で菅原道真は出世して右大臣(899)に上り詰めるが、そこまで。醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと誣告され、罪を得て大宰員外帥に左遷される。大宰府で薨去(903)し、安楽寺に葬られた。享年59。これが、道真の大宰府左遷の一幕であります。後、全国に「天満宮」が造営され、今も受験産業界では隆盛を誇っている。一介の庶民が神とあがめられて、受験者の信仰心で全国制覇した、大出世物語です。
菅原道真が左遷される時に、河内の道明寺へ立ち寄ったとされています。歌舞伎の菅原伝授手習鑑として戯曲にもなって、成田屋の十八番とも云われて伝わっています。その、道明寺への行き帰りかどうかで通った跡が「左専道」等の地名で大阪市内にも今に伝わっています。
さて、その地名をあてに東成区諏訪地区の「諏訪大社」、「左専道小学校」の碑や「させん堂」なるお堂、「左専道公園」等を辿ってきました。これらの点を結ぶと左遷道になるのか、少し短すぎて結論付けるのは無理ですが、傍証にはなります。個人的には、「野崎道」又は「奈良街道」かと思っていましたが、今回の検証では奈良街道に近いように考えられます。
梅も咲き終え、受験戦争も一段落した初夏、全国の天満宮では来期の入学希望者を募り、はめ込みの準備でしょうか。采配を振るっている道真公自体、ジョットコースターの様な人生。その割りには、面白可笑しくも生きられた。一次希望がどうのこうのと、ムキにならなくても良いのじゃなのと鳥居の奥で囁かれているような気がします。
写真:左専道小学校二題(これ自体良い名では無いですな)、させん堂三題、左専道公園