河内温泉大学

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白洲正子「かくれ里」の最終章・・高野山天空の社 丹生都比売神社

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 今年のメインワークと書くと少し大げさですが、それに近い気持ちで取り組んできました白洲正子の紀行文「かくれ里」。その中にあって一番困難な僻地と読み取れる紀ノ川沿いの「丹生都比売神社」への銀輪&牛車行です。ざっくりとした表現を使うと、紀ノ川沿い高野山中の少し南西側ですが、やや大回りに南から国道480号と県道4号で行く場合は大型車両も通行できるが、距離が短い県道109号を使うと狭隘部が多く大型車両が通行困難となっています。白洲が訪ねた時代では僻地という表現を使ってもおかしくない場所であったでしょう。

 その狭隘部がある県道109号から入ることとなったのは私の意志では無く、車の意見でした。紀ノ川を渡り高野山へと向かう途中信号待ちをしていると、背景に見える高野山麓の山肌が少々赤っぽく見えるのは朱砂が含まれているからと思うのは気のせいでしょうか。やがて道は山間に入ると狭く勾配がきつくなってくる。水銀が沢山産出される地名には「丹」「丹生」「遠敷」という文字が多く使われる。和歌山県内だけでも丹生神社は70以上あるそうです。この地にあっても多く産出されていて、得られた冨を使うことで空海高野山経営に成功したとも云われています。

 急勾配を登るとなにやらサルスベリの花と鳥居が見えます。今昔物語によると弘仁七年、真言密教の根本道場を開くべく宇陀で適地を探していた弘法大師空海)が面赤い二匹の犬を連れた猟師に出会い、大師の探し求めるる場所を教えるという。導かれて高野山に達し「山の王」に出会うと、山中に百丁ばかりの領地を譲り受けたと云われています。山の王は「丹生ノ明神」と名乗り、猟師は「高野明神」と名乗ったという。その狩人の住みかであるというのがこの社。狩りをする矢を研いだ砥石(狩場明神矢根研石)が祀られているそうです。犬の顔が赤かったというのは、丹を象徴したもので、実際に吉野から高野へかけては水銀の鉱脈が多い。これに、弘法大師が目をつけた、漫然と仏教の聖地を求めたのではあるまい・・・と白洲も作品中で語っています。先へ進むと町石もある、平安時代の高野山への表参道は、今進んでいるこの「三谷坂」だったそうだがかなり厳しい道であります。さらに進むと突然のように、空間と田圃が出現します。ここが天空の一角に広がる丹生都比売神社が鎮座する上天野地区です。

 仏教(この場合は空海)と日本古来の神(同じく丹生ノ明神)が微妙に結びつき神仏一体となった日本人の宗教観が成立していることを示す好例と白洲は持論を述べています。維新後の廃仏毀釈まではこの付近には、数多くの堂塔が建立されていて、56人の神主と僧侶が共に神仏に仕えていたと云います。今は神社のみが残り、思えば心ないことをしたものだと嘆くのは白洲だけではありません。丹生都比売神社は外鳥居の内、朱塗りの反り橋を渡り、重要文化財指定の楼門の奥に鎌倉時代の本殿が四殿、「丹生都比売大神」「高野御子大神」「大食比売大神」「市杵島比売大神」の順に祀り、合わせて四所明神と名付けています。因みに二番目の高野御子大神は、空海高野山へと導いた先の高野明神です。神社の楼門前の石段や地面も赤っぽく見える、さすがそこまでは演出していない地の色でしょう。白洲が訪れた頃は、神社の近くに朱砂を採掘するささやかな工場があったと云う。朱い土の上に立つ天空の神社といえるのでしょうか。

 背景に高野山という素晴らしい舞台装置を持ち、豊かな自然、財も豊富な天野地区は伝説の宝庫でもあります。曽我の十郎・五郎に仕えた団三郎兄弟、俊寛の家来有王、平家の名門武士滝口入道との恋の末後を追ってこの地で果てたとされる横笛の墓等を登場させています。中でも圧巻は西行、諸国を遍歴した後西行高野山に住んでいたが、妻と娘が尼になって天野に移り住んだと聞き、いつしか山を下りて晩年はこの僧堂で暮らしたと云う。晩年の彼には、行いすました高僧よりそういった姿を想像した方が似つかわしいと、白洲も作品で語っています。白洲は半月ほどの間隔で憑かれたように再び天野地区を訪れています。愚僧も今回は一度目のロケハン次はもう少し時間をかけて、ゆっくりとなめ回すように天野地区を楽しんでみたいと思います。

 写真:狩場明神、上天野の田圃風景、鳥居と反橋、楼門、四所明神西行堂二題

 丹生の里
 天空の 高野の奥に 神仏洲 <偐山頭火