河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

九州行乞の旅「川棚にて」

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 九日間にわたる九州行乞の旅に分かれを告げ、馬関海峡を逆に走ったのは、塚原温泉を出て、湯布院インターから高速に乗り鳥栖ジャンクションを右にしてすぐでした。湯布院や湯の平にも山頭火の足跡がありますが、なにより川棚での山頭火の心情が気にかかり急ぐことにしました。

 四十五歳(大正十五年)から死に場所を求める行乞の旅に出た山頭火は、五十一歳の年ここ川棚において安住の決心をした。後援者による財政的援助体制も出来、後は地元の了解を得るだけとなった。町の小高い妙青寺の一角に庵を設けるつもりで、知人たちに達にも知らせを送った返事の中には妻咲野からの包みも届いている。
 
 私が川棚を歩いたのは、彼がここで庵を結ぼうとした昭和七年から約七十年の歳月が経っているが、彼が歩いたであろう「へんろみち」と小さな標識がある道を辿ると、私には古都奈良の明日香村の古道に見えてならない。彼が明日香路をどれだけ知っていたかは知らないが、日本人の心の琴線に触れる景色は明日香だという思いを強くした、川棚訪問であります、

 この日私が宿をとった「壽旅館」の横にある、結庵を願った妙青寺境内には句碑が建っている。真筆を刻んだというその句は、彼が川棚に受け入れられなかった無念さを、その強い字から読み取るのは私だけでしょうか。後に寺の関係者は釣り逃がした魚は大きかった・・・とある人に言っているが魚などではなく、偉大な文学者を取り逃がしていたのです。

 後援者の財政的援助も限りはある、遅々として進まない交渉に「なんでこんなに淋しい風ふく」という句を残して川棚での結庵に見切りを付けるのであります。後小郡で其中庵を結び、初回に書いた湯田温泉西村屋さんとの交流に発展し、さらに四国や信州そして関東への行乞を行い、最後に伊予松山で「コロリ往生」を遂げるのであります。今回の山頭火との旅は、この先三朝温泉木屋旅館の大女将のお父さんと山頭火との交流のお話しまで、数日中断させていただきます。

 写真:明日香に似た道、「へんろみち」とある、妙青寺と句碑、あふれる湯の壽旅館、名物という瓦蕎麦屋
 
 川棚にて
 ○釣り逃すは二回も山頭火