これまで大坂夏の陣を時間軸を逆にしたような展開でご紹介してきました。ここで、大坂城落城という終末への端緒となった戦、片山道明寺付近の戦場をご紹介します。***道明寺は河内志紀郡にあって、大阪城の東南凡そ五里、奈良より堺に通ずる街道と、紀州より山城に通ずる街道との交叉の要地である。***(菊池寛著:大坂の陣より 以後同様とします)
大和から攻めてくる東軍の進路としては、生駒山系(暗峠)を多くの軍勢で越えることは、不適であります。大和と河内の狭隘部ではるが、大和川沿いを進軍して、国分を通過するというのは当然の選択でしょう。勿論、西軍の軍略も同じで、後藤又兵衛や真田幸村達もこの場所を先に押さえて、付近の斜面から攻めようと考えた。
***四月晦日、大野治房等は樫井の敗戦から還り、大阪で軍議をした。後藤基次先ず国分の狭隘を扼し大和路より来る東軍を要撃することを提議した。前隊は基次、薄田兼相(すすきだかねすけ)、兵数凡そ六千四百。後隊は真田幸村、毛利勝永兵一万二千。五月朔日、前隊は出でて平野に舎営した。五日夜、幸村と勝永天王寺より平野に来り基次に云う、「今夜鶏明道明寺に会し、黎明以前に国分の山を越え、前後隊を合し、東軍を嶮隘に邀え、三人討死するか両将軍の首をとるかを決せん」と。軒昂として訣別の杯をかわした。***とあります。
しかし、霧のために遅れて着く幸村を待たずして、後藤又兵衛は伊達政宗隊に突撃して小松山付近で胸を打ち抜かれ、部下に首をはねて深く埋めと命じます。この埋めたという場所には、かつて印が立っていましたが今回の取材では取り払われていました。(後日追加:首をはねた場所では無く、奮戦の地としての碑で、更に北側の市営テニス場内に移転したとのこと)
このような状況の下で、後藤又兵衛が戦死します。遅れてきた真田幸村も伊達隊に槍を向けるも、城内からの伝令で引き上げることとなります。この後の経過は、既に記したとおりであります。後藤又兵衛は、徳川家康からも東軍に入れと勧誘を受けています。しかし、徳川の時世を腰をかがめて生きるより、戦国武士として華々しく散るという選択に、後の世は武士の鑑と褒めちぎるのでしょう。