道明寺付近の戦に遅れて到着した真田幸村は、後藤又兵衛の死を救うことが出来ず、伊達政宗隊との戦に突入する。しかし、城内よりの退去命令に従う。 ***幸村槍を駢ならべて迎え、六文銭の旌旗(しょうき)、甲冑(かっちゅう)、その他赤色を用いし甲州以来の真田の赤隊、山の如く敢て退かず。午後二時頃城内より退去令の伝騎来って後退した***(大坂夏の陣:菊池寛著)
大坂城へ戻る途中、真田幸村は志紀長吉神社で戦勝を祈願している。今も、長吉神社には幸村が奉納したという「六文銭」の旌旗が保存されている。また、実際に休息を取ったという馬場は保存されている。神社から南へ下ること100メートル程の場所に、六文銭の鉄扉が目印です。
翌日岡山口天王寺口の戦で決するのであります。***五月七日、幸村は最後の戦場を天王寺附近と定め、城中諸将全部出でて東軍を誘致して決戦し、一隊をして正面の戦酣たけなわなる時迂回して背後を衝かしめんとした。幸村茶臼山に陣し、毛利勝永は天王寺南門に備え、大野治長の先鋒銃隊東に在り、左方岡山口は大野治房を配し、迂回すべき遊軍は明石全登なりとよが精兵三百を率いた。又秀頼自ら桜門に出馬した***(大坂夏の陣:菊池寛著)と総大将を押し出しての戦に臨みました。