河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

難攻不落 大和の「筒井順慶城」で

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 大和「五條の賀名生行宮」跡を見学に・・・と河内を出たのですが、途中奈良市あやめ池周辺で所要を済ませた辺りで、腰折れとなり表題の結果に。もっとも、筒井城も課題にはなっていたので、これ幸いと距離の短い楽な方を取ったもの。先の読書会で勉強した、南朝の宮跡へは又の機会にしようと思います。

 さて、秀吉と三成の大山崎の合戦戦況を、洞ヶ峠で見届けていたという筒井順慶。しかし事実は、光秀が洞ヶ峠に出陣し盟友と頼む順慶を待っていた。これが後世歪曲されて喧伝され、順慶が洞ヶ峠で秀吉と光秀の合戦の趨勢を傍観したという、冒頭の洞ヶ峠の故事が生まれ、この「洞ヶ峠」は日和見主義の代名詞として語り継がれています。
 
 光秀が討たれた後、順慶は大和を出立して京都醍醐に向い、秀吉に拝謁した。この際、秀吉は順慶の遅い参陣を叱責したという。以来胃潰瘍になって早死にしたというのも歪曲かな。織田家の後継者を選別する清洲会議が実施され、順慶は他の秀吉方の武将達と共に待機している。秀吉への臣従の証として、養子(従弟、甥でもあった)定次を人質として差し出した。で後も、秀吉の家臣となり大和の所領は安堵された。
 
 と云うのが筒井順慶VS秀吉の大まかな関係です。その、順慶が八代目の筒井家城主としていた城跡を探し求めました。近鉄筒井駅頭の観光マップにはそれらしく表示されています。しかし、これを参考に筒井城へ行くのは至難の業。吉野街道から民家の路地裏のような半間程の通路を進み、更に曲がった奥に広がるのが、一本の標柱と蓮池となっている城跡でした。現代でも難攻不落の、平城ですが北に「量川」という水路を堀に環濠を作っていたのでしょう。元城内にあったという光専寺には、順慶の木造もあるというが閉門され拝見出来ませんでした。一駅先の平端駅近くには「順慶五輪塔」もあります。

 写真:筒井駅周辺、観光案内、里道の先に、今は蓮池、光専寺と道標

 元の木阿弥
 順慶が 成人したら 木阿弥に <正史>

 偐順慶
 順慶を 亡き者にして 偐順慶 <偐史>