河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

年末歳時「赤穂浪士打入前」の段

 昨夜のテレビでも二局で赤穂浪士を取り扱った映画が放送されていました。本論に何か枝葉を付けたような話も多くあります。その中でも「萱野三平」は我々河内に近い摂州に実家があり、打ち入りか再就職かで悩んだあげく自刃するという結末を迎えた武士らしい生き様が印象に残ります。
 箕面の萱野家実家   本年11月

 48人目の義士と云われる萱野三平(萱野重実/かやのしげざね/1675~1702年)は大阪府箕面市萱野に領地を持つ豪族の3男。俳人としても知られていました。
 浅野内匠頭江戸城の松の廊下で吉良上野介を斬りつけた時、三平は浅野家の江戸屋敷にいました。そして、この大事件発生の報を赤穂に知らせるため、同じ江戸にいた早水藤左衛門と共に、浅野内匠頭の弟であり養子でもある浅野大学の書状を持って早駕籠に飛び乗りました。萱野三平こそ最初に事件を赤穂に知らせた人物でした。
 赤穂へ向かう三平が早かごを飛ばした実家脇の街道 画面左

 この街道で彼は自分の母親の葬列に出くわしています。同行の藤左衛門が「ひと目会っていけ」と勧めるのを振り切って、三平は涙を流しながら合掌し先を急ぎました。そして、わずか4日で赤穗に到着しました。
 穂城 何年か前 義士祭出陣のつもり

 義士祭Ⅱ 浅野内匠頭切腹のシーン

 結局赤穂藩は取りつぶし、家臣達は郷里に戻ります。萱野三平も実家に戻り父親から他家への仕官を勧められます。一方同士達と主君の仇を・・・との約束の板挟みなります。苦しんだ三平が選んだ道は自刃と云う結論でした。
 自刃の部屋

 主君の月命日1月14日を自刃の日と決め、京の山科にいた大石内蔵助に遺書を書きました。約束を守れなかった自分を侘び、仲間への励ましの言葉を添え、そして父への遺書も遺しました。切腹前夜には父や兄嫁と談笑しています。その後自室に戻った三平は、明け方近く主君の墓所に向かいながら脇差を腹に突き立てました。こうして討ち入りに参加したくてもできなかった三平は、せめて心だけは仲間たちと共にありたいと一足先にこの世を去ってしまいました。
 辞世の句  晴れゆくや日ごろ心の花曇り

 北大阪急行の箕面延伸に伴い箕面萱野駅が新設されます。開業までは打入に合わすことが出来なかったようですが、既に線路敷設も終了し来年三月の延伸を待つだけのようです。新駅から萱野三平の家までは徒歩でも数分程度、春のハイキングコースに如何かなと思います。

 岐路に立つ 主君の生死で 三男坊 <偐山頭火