うたしの里石川の朝は村内に流れるサイレンとともに明けます。楽曲ワンコーラスが流れる所もあったが、サイレンの方がただ単に起き上がれという合図のように聞こえて好ましい。表題のように本日は四国の瀬戸内を総ナメするような行程なので、食後早々に島を辞するつもり。ただ、一つ気がかりなのは、昨年の豪雨で土石流で流されたという「多々羅温泉」。再開の見込みは無いとのことだが、現場だけでも見学しよう。往年の「ふるさと創生資金」で出来た、数少ない島内の娯楽施設だけに再開が望まれます。
しまなみ海道に別れを告げるため立ち寄ったのが来島海峡SA。眺望の写真撮影と四国土産の定番タルトを買いました。松山市内なら「一六」だろうが、ここ今治では「ハタダ」(新居浜市)の栗入りだった、縄張りでしょうか。蛇足だが、帰宅後試食したが味に不足は無かった。
今治駅を過ぎて直ぐに見つかった「今治城」は藤堂高虎が、瀬戸内海に面した海岸に築いた大規模な平城です。別名吹揚城(ふきあげじょう)ともいいます。城内に入ると高虎公が乗馬姿で勇ましく立っておられるが、この城の完成後には伊勢・伊賀へ転封となった。同時に天守も解体されたそうで、今の天守は昭和55年に再建されたもの。どことなく細身の天守です。
寺伝によれば、用明天皇の病気平癒を祈願して聖徳太子が建立した。空海が巡錫中、当寺の門前で身重の婦人が苦しんでいた。そこで空海は栴檀の香を焚いて加持祈祷をすると元気な男の子が無事に出産したと云う、安産祈願が多いという。
南無観世音おん手したたる水の一すぢ
秋の夜の護摩のほのほの燃えさかるなり
二つの句碑は本堂へ向かう道の右手に並んで建っている。当時の香園寺の観音像から流れ出る手水を詠んだものでしょう。今も句碑の前の手水では観音像が置かれ一滴の水が流れていました。非業の死を遂げた母の位牌を懐に四国遍路をした山頭火は、実際にこの辺りを歩いています。安産伝説と観音像が山頭火の心に響いたのでしょうか。
秋の夜の護摩のほのほの燃えさかるなり
二つの句碑は本堂へ向かう道の右手に並んで建っている。当時の香園寺の観音像から流れ出る手水を詠んだものでしょう。今も句碑の前の手水では観音像が置かれ一滴の水が流れていました。非業の死を遂げた母の位牌を懐に四国遍路をした山頭火は、実際にこの辺りを歩いています。安産伝説と観音像が山頭火の心に響いたのでしょうか。
次なる目的地は「マチュピチ」です。日本人は何故かマチュピチ好きな方が多いようで、山城を**マチュピチ等々名付けておられる(たぶん観光業者でしょうが)が、ここ別子銅山もマチュピチになりました。
マチュピチへは新居浜市から県道を山岳部へ切り込み、更に専用道へ入ります。登ってきた道を振り返ると、次の写真のような崖っぷちを(赤矢印)登ってきたことになります。
その先にマチュピチがありましたが、本家マチュピチには少々失礼な命名だと思います。泉屋いわゆる住友財閥の本貫とも云えます銅山、その歴史は現地の資料館で勉強させていただきました。紅葉の秋が一番の見頃と云います。V字型の峡谷の向こうに新居浜港と瀬戸海、手前が紅葉ならばさぞかし絶景でしょう。
自称マチュピチの後は新居浜に戻り夏目漱石の句碑めぐりです。伊予国へ来た以上は漱石先生もしくは子規先生にご挨拶して行かねば。そこで、道中で適当(失礼)な句碑を探したら、新居浜市一宮にある一宮神社に「風に聞け何れ可先に散る木の葉」があるとのこと。
新居浜市役所近くの一宮神社へ参拝。漱石の句碑を探すも見つからない、社務所でベルを押すも不在の様子です。諦めようかと迷う気持ちもありつつ、後ろ髪を引かれる句です。なお探すも遂に諦めかけたら神職が受付に出てこられたので問う。「句碑は拝殿を改築するあいだ、隅に寄せて俯せています」とのお返事です。なるほど、拝殿脇に石材らしいものが置いてありました。残念ながらうつぶせ寝をされているので、正面からは拝見することが出来ません。レントゲン写真なら、透けて文字が見えるのでしょうが悪しからず。
観音寺(かんのんじ)は観音寺市(かんおんじし)にある第六十九番札所です。室町時代には足利尊氏の子・道尊大政大僧正が45年間住職を務めるなど隆盛を誇ったとか。明治維新後は神仏習合の名残を消すためか、琴弾八幡宮の神宮寺であった観音寺が六十九番、旧の神社に当たる琴弾八幡宮が神恵院第六十八番札所になったため、現在のように一境内に二つの札所が並び建っています。まあ、お参りする方は便利ですが、古くは神社も札所になっていたと云うことですね。
善通寺は空海の誕生地とされ和歌山県の高野山、京都府の東寺と共に弘法大師三大霊場に数えられています。唐から帰国した空海が、父佐伯直田公の寄進を受けた寺域に建立したとされ、寺名の善通は父の戒名という。広大な境内は創建地である東院(伽藍)と、空海生誕地とされる西院(誕生院)に分かれている。西と東を結ぶのが二十日橋です。
山門近くには大きな楠木があり、昨日の大山祇神社を思い出します。たぶん樹齢は千年を超えているだろう。ひょっとすると空海と同じ空気を吸っていたかも知れないと思うと、四国という土地の奥深さを感じさせられます。
さあ、もう日も西に傾きかけています。丸亀城へ急ぎましょう。
さあ、もう日も西に傾きかけています。丸亀城へ急ぎましょう。
丸亀市の南部に位置する亀山を中心に建つ城で、荒々しい野面積みと端整な算木積みの土台から、頂は垂直になるよう独特の反りを持たせた石垣で有名。山麓から山頂まで4重に重ねられ、合わせると60メートルになり、総高としては日本一高い石垣だそうだが、残念ながら時間切れと体力切れで征服出来ず。
鯉のぼりとスワンと城、祭の準備でしょうか。
さあ、宿へ急ぎましょう。とナビを見るとやけに行程が長い、念のために宿へ連絡すると昨年の大雨で一部道路が封鎖されていて、大回りで行かねばならないとのこと。これで小一時間が無駄となります。しかし、少々薄暗いのが不安の種ですが、五色台ドライブウエイと云うだけあって心地良いカーブの連続で運転が楽しい。そして、何カ所かの札所を通過して辿り着いたのがご覧の風景でした。ここでも瀬戸大橋で四国と繋がっていました。
明朝の景色が楽しみです。
漱石先生