河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

里芋あれこれ

 我がKleinGartenの主な収穫物は、胡瓜、ピーマン、トマト、茄子などであったが、その各種類の間に植えた里芋が最大の収穫量となりました。前記の苗などを植え、主題であった修景を彩る秋桜を植えたが、どうも空間が気になる。そこで、理髪店を営むI氏に相談したところ、親戚から貰った里芋の種芋があるから分けてくれるという。
 種芋を植えた印の割り箸 22年3月

 種芋も植える間隔等の学習無きまま植えたものですから、あっちこっちに飛び地状に植えました。そこで、土の中に里芋の種があるという印に割り箸を挿さないと更に植えてしまう危険がありますので。要は行き当たりばったり・・・と云う偐山頭火風のKleinGartenです。この様な植え方ではウクライナで生じた侵略戦争では、都市のろう城作戦に備えるという意味では宜しくない。
 芽が出てきましたから、重ね植えの心配はなさそうです   同4月中旬

 6月を迎えると里芋らしい葉が出そろって来ました。夜間に見ると人影にも見える立派な茎と葉が育ち、雨が降ると葉の上を滑るように雫が落ちていきます。紫色の矢印は薩摩芋です。これも大変大きくなってきました。
 里芋と薩摩芋競演

 され、ここで少し里芋のお勉強です。ネットからの受け売りですので、リンクを張って少し学んでみましょう。
 日本への伝播ははっきりしていないが、イネの渡来よりも早い縄文時代後期と考えられています。日本の食文化とサトイモの関わりは関係が深く、古い時代から月見の宴などの儀礼食に欠かさない食材で使われており、サトイモを餅の代用にした「餅なし正月」の習俗も日本各地で見られた。戦国時代には野戦携行食として、茎葉の皮を剥いて乾燥させた保存食「干し ずいき」「芋がら」が重宝された。とウイッキペデアにあります。また、名の由来は、山地に自生していたヤマイモに対し、里で栽培されることから「里芋」という名が付いたとされるそうです。食べ方としては、サトイモは種芋から成長した茎の下部が肥大して親イモとなり、その親芋の周りを囲むように子イモが生じ、さらに子イモには孫イモがついて増えていくユニークな育ち方をする。主に子イモを食べるもの、親イモを食べるもの、親イモと子イモの両方を食べる品種がある。我が家の親芋も切れば断面は芋ですが、いまだに食してはいません。
 親イモと周辺の子いも

 今月に入り本格的に収穫にかかります。2週間ほど前にNちゃんとKY君とで二株を収穫しましたが、その時力任せで芋を抜いたため右手の手首が故障しました。それ程力が要るならと昨日と一昨日はスコップを利用してテコの原理で掘ることに。芋が成長している形状が分かりましたので、スコップを差し込んで芋を切ってしまうことが無くなりました。
 株ごとごっそりと掘ります

 二日間で9株ほど掘りました。掘った芋は取りあえず左官用の「舟」に乗せて倉庫まで引きずります。暑くて日射を避けるため、倉庫内で選別します。選別した芋はご希望を伺った上で近所に5軒、ガレージを利用なさっている方に3軒お配りましした。そして、一番遠いところでは先月愚僧の見舞いに来てくれたGさん宛に江東区へ、伊勢のKz君にも芋以外のおまけも付けて送りました。ボチボチ到着している頃でしょう。
 宅急便一番安いサイズ60に詰め込みます

  来年に向けての種芋は年末まで葉の付いたまま残し、上の茎と葉を切り落として稲などを被し保温して3月頃に取り出して植えるとの事です。愚僧もその準備をしていましたら、I氏から来年も種芋が届きますと伝えられその手配はしなくても済みそうです。今年1年間での反省点も踏まえ、更に充実させて行きたいと思います。

 里芋の 伝来は縄文 永付き合い  <偐山頭火

 里芋は 姿変えずに 価値同じ   <偐山頭火 


 おまけです
 鯖街道熊川宿で見た里芋の皮取りマシン。自然の流れで回る封鎖型水車の中で転がして皮を取ります。これは先人の生活の知恵、最先端ITマシンもこれには及ばないでしょう。中を覗くと綺麗に皮がとれていました。
  熊川宿の里芋皮むきマシン