先にテレビ番組のお話しをしました、その続きです。聖徳太子を語る切り口にその棺の一部ではないのかという物をキーとした構成です。それは、知人が住職をされている柏原市玉手町の安福寺に伝わる寺宝であります。同寺は尾張徳川家が維新まで「年貢」を納めていたというだけあって、非常に立派な造で山門が幾つもあり伽藍や墓所などが玉手山を取り囲む様に配置されています。瓦を縦にして敷き詰めた参道は、映画のロケや絵画、写真、俳句(一茶も来客)に良く映えます。玉手山はこども遊園地でありますが、歴史絵巻のテーマパークでもあります。
番組では同寺に伝わる一見板切れに見える物が、聖徳太子の漆塗製の棺の一部ではないかと推論されるところから、書き下していました。古代の棺で高貴な方の物でも、同じ漆塗りであっても麻の素材が多い。藤原鎌足の墓ではないかと云われる大阪府高槻市奈佐原の阿武山古墳、斉明天皇のものと伝わる奈良県の牽牛子塚古墳でも、貼り合わせたものは麻で数十枚程度と云います。しかし、安福寺に伝わるものはそれを遥かに超える枚数の絹を貼り合わせてあり、類を見ない超高級品と云うことから、天皇クラス以上という。加えて、聖徳太子のお墓である叡福寺とは背中合わせの位置に安福寺があります。
ところで、乾漆と云えば同じく知人であります彼谷氏はその道の作家です。彼の技法は麻の布に、漆を蒔いて食器を中心に創作されています。素材が布と漆ゆえ造形は自由度が高いが、空気中の塵などの汚れを嫌い、早朝空気が動き出す前に作業すると言っておられます。相当神経と時間を使う作業だそうで、太子の棺の製作には一年以上と・・・と番組中コメントがありましたが、ある程度の集団の作業としてその時間がかかったのでしょうか。
番組では纏めとして、太子の偉業の数々、法隆寺に伝わる釈迦三尊像の後背の文字の由来等から太子の人間像を書き綴っていきます。しかし、何故斯様なものが河内のお寺にあるのかと言う点はグレーです。その謎が歴史の面白い所かも知れません、次の安福寺ヒストリアが楽しみでもあります。
秋雨に閉じ込められて数日です、鰯曇の下を出歩きたいとも思いますが数日身体を休めなさいと云う天の声かも知れません。従いましょう。
玉手山
山門の 心安らぐ 安福寺 一茶も来たり 誰を偲ぶか <無茶>
山門の 心安らぐ 安福寺 一茶も来たり 誰を偲ぶか <無茶>
追加:同内容の再放送日が10月22日日曜早朝とのことです。