河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

近鉄道明寺線開業120周年あれこれ

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

 河内には奈良街道を始め数々の街道が交錯しています。東海道53次と云われる我が国を代表する街道、京都から発して高野山へ至る高野街道高野街道は大阪に入って西・東と分かれています。大阪を含む近畿は、江戸幕府が確立するまでは朝廷という最高権力に近かったために、主要街道の基点に近いという特色を持っていました。その街道は人と物を運ぶ血管のようなものであり、人体に例えると要所要所の宿場は人の臓器のような働きをしていたのでしょうか。しかし、時に街道は信仰心で切り開かれるものもあったようです。

 先に書きました高野街道は、京都の東寺から高野山へ至る街道でその先は熊野詣に繋がる壮大な信仰の道です。この高野街道は鉄路の時代になっても、しっかりと機能を持っています。南海の高野線は線路名にも残されています。旧国鉄関西本線和歌山線を繋ぎ合わせて、高野山への参詣の道筋は確保されています。今一つ、近鉄線ではどうでしょうかと云うのが今回の話題です。なお、京都と大阪・奈良間は今回の論点からずらすこととします。

 結論から申しますと、近鉄線も上本町発大阪線、阿部野発南大阪線共に高野山への参詣経路はあります。阿倍野駅から南大阪線で古市駅、長野線に切り替わって河内長野駅まで。ここで、前述の南海高野線に乗り継ぐと高野山へ至ります。では、大阪線はと云いますと堅下駅で柏原駅へ移動し、近鉄道明寺線に乗り継ぎ道明寺駅南大阪線を利用すれば高野山へ至ります。旧国鉄の場合は、和歌山線を利用せずとも、近鉄道明寺線利用での高野山へのルートもあります。

 ここで、近鉄道明寺線の役割です。この鉄道は明治31年に柏原、古市間で営業が開始されました。営業開始時は「河陽鉄道」でしたが、翌年「河南鉄道」となり後年滝谷不動尊のある河内長野まで延伸されます。営業開始時は今の関西線が通じていたので、関西線からの客を大和川を渡河させ「道明寺天満宮」への参詣線として期待されたようです。後、今の近鉄南大阪線が敷設されますが、結節点を古市駅か道明寺駅かの議論の結論となったのは、道明寺天満宮の存在が大きかったと云われています。明治41年に開設された「玉手山遊園地」も、道明寺駅からの吊り橋設置など河南鉄道の思惑が見て取れます。

 この道明寺線は鉄道マニアによるとお宝と云われています。柏原駅から大和川に至る傾斜部には、3カ所のレンガ造りの溝橋がありそれぞれ特色と工夫が凝らされています。柏原駅から順に1,2号、奈良街道陸橋と呼び、1及び2はフランス式のレンガ積み、奈良街道はイギリス式です。大和川を渡河する橋梁の脚部は見かけコンクリ作りですが、中身は鋼管でイギリスで当時製作された事を示す刻印があります。斯様なマニアックな遺跡とも云える鉄路の痕跡は河内長野駅まで続くといいます。表題の通り、道明寺線の開通120年に当たり、営業開始日の本年3月24日関係者が集まり、柏原駅のホームで記念式典が行われたそうです。

 写真:関西線と道明寺線、1.2号溝橋、柏原南口駅、奈良街道陸橋、大和川橋梁、玉手橋

 起終点
 いつの世も 思いは同じ 京熊野 <偐山頭火

 参考資料:近畿文化822(近畿文化会事務局発行)「開業120周年を迎えた南河内への鉄路」石田成年(柏原市歴史資料館学芸員