廃仏毀釈までは同じ屋敷内に存在していたという、道明寺天満宮と道明寺は一言で言い表すと表題のような雰囲気を現しています。どちが良いとかいけないと云う意味ではありません。自然に醸し出す雰囲気がそう感じられます。維新後は、宗教とその思想で国を括り、一体感を持って列強に当たろうとしたのか、天皇制を強く前面に押し出した。その結果として、神仏習合であった日本人の信仰から仏教をより分けようとしました。若狭の神宮寺の例を見るまでも無くそれも完璧では無かったようですが。
何かやり出すと制御が効かないというか、徹底的にやってしまうと云う国民性は、仏像を潰したり伝統的な神楽に天竺という言葉があると云うだけで、神道に反すると規制します。今となっては、潰したそれを守ろうとするのも国の機関である文部省なので、神様・仏様もどうなっているンや、と戸惑っておられますかな。しかし、幾ら規制しても変えられなかったのが人の心だったのか、咄嗟に祈る時「神様か仏様か」瞬時に判断して祈れないのも日本人の国民性でしょうか。いっそうのこと「神様仏様」と纏めておすがりしていますな。
えらく遠くまで逸れてしまいました。本日は「道明寺」のお話しです。道明寺天満宮の西、京都の東寺を発して高野山へ至る、東高野街道を挟んで建つのが「真言宗御室派の尼寺道明寺」です。御室派と云うことは、皇室縁のお寺です。道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であったとか。大宰府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれていて、四代目市川團十郎の十八番と彼が奉納した手水鉢も含めて紹介しました。
躍と寂に戻します。リンクを読んでいただいてもここまでの拙い紹介を読んでいただいても、天満宮と道明寺は来歴等はほぼ同じ位置に建っていますが、境内、山内に立つと雰囲気の違いに驚かされます。梅林があって、入学試験があって菊花展があって・・・と何かと世事に忙しい天満宮に比して道明寺は何時訪れても時間が止まったような静けさが漂います。白洲正子は近くまで来ていて訪れていないが、道真が彫ったという「十一面観音像」を祀っています。一度拝みたいと思いつつ実現していません。隣の天満宮では昨日から菊花展、その序でにとは失礼かも知れませんが道明寺へも足を運んでみませんか。
躍と寂に戻します。リンクを読んでいただいてもここまでの拙い紹介を読んでいただいても、天満宮と道明寺は来歴等はほぼ同じ位置に建っていますが、境内、山内に立つと雰囲気の違いに驚かされます。梅林があって、入学試験があって菊花展があって・・・と何かと世事に忙しい天満宮に比して道明寺は何時訪れても時間が止まったような静けさが漂います。白洲正子は近くまで来ていて訪れていないが、道真が彫ったという「十一面観音像」を祀っています。一度拝みたいと思いつつ実現していません。隣の天満宮では昨日から菊花展、その序でにとは失礼かも知れませんが道明寺へも足を運んでみませんか。
写真:本堂、多宝塔(第一次世界大戦戦死者を祀る)、高浜虛子の孫娘の句碑等、大師堂、縁起
街道
東寺から 高野に至 街道に 道真公が 道明(あか)里か <偐道真>
東寺から 高野に至 街道に 道真公が 道明(あか)里か <偐道真>