河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

早かったのか、遅すぎたのか 「葛城山系紅葉巡り行」

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 今年は随分葛城山にはお世話になりました。正確には昨年暮れから葛城山麓の九品寺や一言主神社の磐之姫の生まれ育った葛城髙宮跡等の訪問を切っ掛けに、神武天皇そして役行者のかくれ里を巡ることが出来ました。その葛城山から紅葉の便りが届くようになり、〆として山麓の紅葉を楽しもうと出掛けました。

 いつもの様に穴虫峠を越えて大和に入り山麓バイパスを南下します。當麻寺では「中将餅」を愚妻の土産に。店内の掲示によると、12月31日から正月11日まで休業という。相変わらず豪気な姿勢で、好感が持てます。更に南下しますと、九品寺です。この時期だとバイパスから見える、稲藁積(におづみ)された藁が目印になります。山門を入った所から本堂を見通す風景が美しいですね。もみじの紅葉やや行きすぎかなとも思われますが、脇を流れる山からの清流の音と調和します。山系の幾筋かの滝の水が枯れたと言いますが、九品寺を流れ落ちる水量は、磐之姫の頃と絶えること無く同じなのでしょう。

 バイパスを更に南下すると、杉並木道とクロスする地点に出ます。ここで一旦脇に逸れてバイパスをくぐり並木に沿って山に向かうと、「一言主神社」、地元の方が一言さんと親しく呼ばれます。この社は樹齢千年以上という銀杏が見事ですが、黄葉には至っていません。しかし、周辺の紅葉とのコントラストは見事ですね。松尾芭蕉は『笈の小文』の旅で葛城山にふれ、「猶(なほ)みたし花に明行(あけゆく)神の顔」の句を残しています。これは、役行者葛城山と吉野の金峯山に橋を架けようとした。それを手伝った一言主神は容貌を恥じて夜だけ働き、夜明け前に姿を隠したという言い伝えを句にしたものです。
 
 神武天皇が日向から東の国々を征服する旅に出た。熊野から上陸して大和の宇陀などを経て葛城の高尾張邑(たかおわりむら)に来た。ここで天皇は土グモ(土着民)と戦い、これを退治した。この時、葛(かずら)のつるで作った網でクモを覆い殺した。よってこの地を「葛城(かずらき)」と名づけたという。神社に、その土グモを埋めたという「蜘蛛塚」がある。同じ蜘蛛にまつわる塚は、高天原にもあります。その、高天原では高天神社の脇に一本の銀杏が見事に黄葉していました。その真向かいの林の中に「蜘蛛窟(塚)」があります。道幅30センチほどの細く険しい獣道を僅か40メートル程入った所です。蜘蛛なら容易いだろうが、常人でもちと険しいかな。

 ここからはバイクで更に奥の橋本院を目指します。天空の大地と言えば、高野山の丹生都比売神社が鎮座する上天野地区と似ています。多少、高天の方が狭いが山の懐を考えると当然かも知れません。橋本院では紅葉も見られますが、鐘楼の前の花が盛り。花不精ゆえ調べる事すらできかねますが、この時期の花も見応えがありました。住職夫妻が田刈りが終わった段々畑の一番裾で何やら作業をされています。来年の春に客を迎える準備でしょう、声かけ合う響きが谷にこだましていました。

 昼飯はこの付近では高鴨神社の脇の観光案内所を兼ねた蕎麦屋しかありません。仕方が無いので・・・と云うと店主に申し訳ないがその通りなので仕方なしに、おろし蕎麦を注文します。生意気な言い方ですが、店主少々腕を上げたような気もします。しかし、ここ大和では喰いものの味などどうでも宜しい。喰い終わり神社の放生池を覗き込んでいますと、新調なった本殿に紅葉が美しい。シンボルの鴨も居て翼を休めています。目の絞りが開放に近かったのですが、少し絞ると目の前に蜘蛛が巣を張って登り降りしています。神武帝ならここで葛の網を被せて閉じ込め、「蜘蛛塚」を新調するところでしょうが、あいにく愚僧は帝でもなく蜘蛛も刃向かう様子が無いので残念ながら新たな珍伝説は生まれなかった。

 写真:九品寺門前の稲藁積みと山門紅葉、一言主神社銀杏と芭蕉句碑、高天原銀杏と蜘蛛塚、橋本院鐘楼、注意書きが気にかかる蜘蛛と鴨

 紅葉
 黄昏れて 木の葉紅 餅深緑 <さすが中将餅>