熊野路という響きは、私も含めた日本人の心の琴線に触れる何かをもっている。世界遺産に登録されたからという、時流に乗った訳ではない。20年ほど前に京都の東寺から始まる、高野街道に興味を持ってこの街道を踏破した記録を綴ったのが「河内の街道物語」。企業ものの冊子としてはベストセラーを続けている。当然、高野街道の延長線上にあるのが熊野古道であるわけだから、元々関心が無い訳は無い。
ここ数年の関心の的である「温泉」というアイテムを得てからは、この熊野古道に関してはさらに関心を深めてきた。もっとも、この温泉というアイテムは、古人にとっても非常に関心があり好都合なテーマであったようだ。熊野大社に詣でる前に「湯垢離」(ゆごり)と称して温泉を楽しんでいる。お伊勢参りの例によらなくても、お参りを言い訳に楽しんでいたのだろう。(時代が下がる鎌倉期以降には、お伊勢参りプラス熊野参りまで楽しんでいる。)
特に湯の峰温泉に至っては「小栗判官伝説」まで設けて、旅と湯浴みの正当性を主張している。こと、湯治に関しては、お伊勢参り以上に旅の正当性が高いことであっただろう。
しかし、熊野古道、特に中辺路のはしばしを歩いた今回の旅で感じたのは、この様なルートを皆が歩いて踏破したのかと言う疑問である。歩かされた人と、歩いたつもりの人がいて、歩かされた人の歴史は消し去られて、歩いたつもり人の歴史が今に残っているのではないか。いわゆる勝者の歴史というやつだ。
熊野古道の千尋の谷に、蓮台を担ぐ肩が滑って悲鳴をあげながら落ちていった従者、毎日の食料を先回りして整えていた従者達の歴史は今に何も伝わらない。もちろん、従者を従えての旅人ばかりでなく、時代が下がると中間層が増えて旅の庶民化による、それなりの旅のスタイルが別れてきたという事実はあったとしても。
追伸
現在の私を熊野古道の時代に置き換えると、私は従者の立場か。しかしながら、近代文明の御陰で蓮台を担ぐこともなく、自家用車という庶民が幸せを感じ取ることの出来る「エンジン付きの蓮台」を操って古道を巡るとが出来た幸せを噛みしめています。
写真:熊野古道の難所「瀧尻王子」を「野中の清水」方面から望む