河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

お湯休め「古事記編纂1300年記念奈良行 田原編」

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 異変の予兆は頭塔到着前からあった。車中に電話がかかり、荷物忘れてるで・・・と。普段は愚妻任せの荷物作りを自分でやったのは良いが、全部玄関において出立したらしい。で、本日の経済は全て偐家持任せとなることになったのです。何時ものことだが、本日はすがすがしく任せることが出来る、と内心ほくそ笑んでいました。

 次に向かったのは、白毫寺や奥山ドライブウエイ入り口を横目に見て、田原の里へ坂道を登ります。昔ゴルフをしていた頃、コースに通じる名阪国道が渋滞するとバイパスとして利用した道です。坂を登り切った峠にあるのが奈良県ヘリポートです。ここへ車を止めて、以後MTB行となります。このヘリポート脇にあるのが、偐家持氏の恩師犬養先生などが、この地にヘリポートは似合わないとする意思表示で建立された歌碑が建っている。

 ここから坂を下りまず向かったのが、通称田原西陵と呼ばれる「志貴皇子陵」です。県道の200m程奥にありますが、歌碑は道沿いにひっそりと建っています。
 石走(いはばしる) 垂水(たるみ)の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも(志貴皇子 万葉集巻8-1418)

 少し逆戻り、右折して軽快に坂道を下りますと「太安萬侶」の墓です、川瀬直美監督の「殯の森」のロケ現場となった一帯は、茶畑が地面の凹凸で波のようになって見える、その一番高いところに墓があります。このような何でもない茶畑から出てきたのだから、付近の茶畑を調査すれば有名人がもっとお休みなっているかも知れませんな・・と偐家持氏とお喋りしながら更に先へ。

 次は田原東陵と呼ばれる「光仁天皇陵」に着きます。彼は志貴皇子の子で天智天皇の孫”62歳での即位は継体天皇以降では今日に至るまで最高齢即位”(偐家持談)と、歴史に名を残す手段は何でもあると感じました。そろそろ、腹ごしらえの時間、道端の「喫茶グリーン トンネル」とやらで栄養補給としました。

 食後走り出すと力が入り過ぎたのか、分解整備したばかりのMTBのチェーンが断裂しました。苦難というかトラブルの第二弾です。そこで作戦としては、私が偐家持氏のバイクを借用してヘリポートへ戻り、車を持ってくる、その間彼は手押しで前進。田原における「ともだち作戦」です。家持氏は養老年間の生まれで、牛車の運転免許しか持たないため本作線を立案したもの。気分はロシア艦隊から日本海軍の勝利を導いた秋山真之でした。

 しかし、偐家持氏のバイクを借用して走りますが、慣れないせいか思うにスピードが出ません、坂道では押して前進するという実態に、結局の戦果としては偐家持氏を迎えに向かおうとして道路に出たところで彼に追いつかれてしまいました。田原のともだち作戦は敢えなく失敗となりました。

 写真:ヘリポート脇の犬養万葉歌碑、田原西陵と志貴皇子歌碑、太安萬侶墓、田原東陵、ともだち作戦図
 
 参考:偐家持氏ブログにて犬養歌碑などはご覧下さい
    http://plaza.rakuten.co.jp/YAKAMOCHI35/diary/201202280000/