河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

吉備路の旅「備中高松城から閑谷学校へ」

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 サンロード吉備路での朝食を済ませたら、真向かいが備中国分寺です。隣には尼寺も並んでいますので、聖武天皇ご夫妻の偉業を拝見とします。国分寺五重塔は県下唯一とか、なだらかな風土記の丘に建つ塔は見所です。平山画伯も寅さんも訪れている、偐寅も今回で何回目かです。

 暫く東へ走りますと「造山古墳」に。これも、サンロード吉備路の隣にあった「作山古墳」と並んで、日本有数の規模の大きな前方後円墳ですが、宮内庁は関与なされていない。ということは、立ち入り見学が可能です。この辺りから、進路を北にとりますと「最上稲荷」の大鳥居が見えてくる。あの先が備中高松城です。

 信長の命を受けた秀吉らによる「中国攻」総仕上げの相手が、毛利の先兵で高松城の城主清水宗治と籠城した五千の兵です。この辺の説明は不要と思います。現地に立つと西に足守川が南北に流れ、東に最上稲荷が祀られる丘陵も南北に繋がります。流れの下に東西の堤を築堤すれば、俄ダムの出来上がりです。軍師黒田官兵衛の策と云います。伝記物等では長さは足守川まで2.7キロだそうですが、現在の研究では東端から300メートルらしいことが分かってきたと云います。

 この戦に豊臣方に参加した「宇喜多秀家」の重臣花房正成という方がおられます。この方が愚妻の実家の御先祖らしいと云うことで、今回初めて訪問して資料館などで、この姓を見て感慨にひたっていました。彼女の実家にも巻物がありこの姓が見られるとのこと。しかし、一家は終戦後大阪に出てきていますので、纏まった物としては残っておりません。今後断片でも繋ぎ合わせたら良いのでしょう。古文書スキャナーもあるそうですから、暇つぶしに良いかもしれませんね。

 さて、岡山県の東端まで来たら紅葉の閑谷学校です。新緑の時に一度来ていますが、紅葉の時期は初めて。少し過ぎてはいますが、素晴らしい景色です。孔子の教えを元に、庶民にも開放されていた池田藩の藩校です。今も、子ども達が正座して学ぶことがあると云います。儒教の良い面を残し伝えるというのは、国宝の講堂を守り伝えると共に良いことだと感じました。

 写真:国分寺最上稲荷鳥居、高松城陣形鳥瞰模型、高松城跡説明、清水宗治首塚、パノラマ写真二題、閑谷学校校舎等、説明板

 宗治辞世
 浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して
 
 武士の 残せる苔を 高松で 水城に立ちて 浮世儚し <偐山頭火