河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

湖東三十三面観音像巡り 50年ぶりに石塔と再開

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 観音様を巡る旅の陰の主役といえます白洲正子さんですが、プロフィールによりますと
 =1910年(明治43年)1月7日東京府東京市麹町区に父樺山愛輔と母・常子の次女として生まれる。祖父は樺山資紀(海軍大将、伯爵)、母方の祖父に川村純義(海軍大将、伯爵)。1914年(大正3年)能を習い始める。1928年(昭和3年)ハートリッジ・スクール卒業。聖心語学校(現・聖心インターナショナルスクール)中退。1929年(昭和4年白洲次郎と結婚。1942年(昭和17年東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(現・東京都町田市能ヶ谷)の古農家を購入。この頃から細川護立に古美術の手ほどきを受ける。1964年(昭和39年)随筆『能面』で第15回読売文学賞受賞。1973年(昭和47年)随筆『かくれ里』で第24回読売文学賞受賞=
 薩摩藩士の子女として生まれ、戦後の日本復興を陰で支えた白洲次郎と結婚。縁あって小林秀雄大岡昇平などとの交流の中で文筆や博識を研いています。

 今回の道行きの切っ掛けとなった「かくれ里」(ざと)は24編のエッセイ集です。岐阜・福井各2編、京都6編、滋賀9編そして奈良が5編の構成で滋賀の油日から始まり奈良の葛城で終わっています。作品中に出てくる地域や寺院そして神社などは彼女と同時期に訪れた場所も多い、しかし感性の違いというか知識の違いをまざまざと覚えさせられるシーンや下りが多い作品です。「葛城のあたり」では、橿原神宮と少し南に位置する柏原の神武天皇社との関係など思いもよらぬ展開です。この柏原の地や葛城山麓の社寺も既に訪れており、近々ご紹介できると思います。

 さて、十一面観音様のお一人目は「石塔寺」(いしどうじ)です。此処も50年以上前に所属する若草読書会の古いメンバーと訪れたことがあります。再訪を希望していたのですが諸般の事情で、今回まで先送りとなっておりました。その頃流行っていた「前衛映画」のロケで使われ、石仏群の中を得体の知れない裸体の女性が動き回る・・・という青年僧偐山頭火には刺激の強いシーンの映画でした。今回受付の若い僧にお尋ねしても、時代劇のロケには使われてこともありましたが最近は・・・とご存じ無い様子、然もありなん。

 158段いう急な石段を息を切らせながら上り詰めたら石塔が待っています。初回見た時は韓国の扶余で見た石塔と同じだと思いました。白洲さんは作品中「石をたずねて」で半島の系統だが作ったのは日本人だと語っています、塔の心柱部分が半島より細いのがその理由かも知れません。この大きな石塔を囲むように幾万と云われる石仏と石塔群が取りまいています。さて、お目当ての観音様は麓の本堂に優しいお顔でおられますが、撮影禁止に付き読者の皆様はご辛抱下さい。石塔寺や湖東アルプスにある狛坂廃寺石垣の穴太衆積み等、石の文化が滋賀の特色と魅力であり半島の文化の影響の痕跡だと思います。

 写真:石塔と石仏石塔群二題、158段の石段、本堂入口(本尊は秘仏

 石塔にて
 青年が 心惑わす 石塔の 影になったり 顕わになったり <青年偐山頭火