河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

野崎観音から四條畷神社まで 左甚五郎忘れ猫にも出会う

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 主な目的は四條畷神社、次回若草読書会の課題図書が「南北朝」林屋辰三郎著と云うことで、読書に取り組んでいましたが現場の空気を吸えば少しは理解が進むのではと云う、期待値を込めての訪問です。以前一度行ったことがありましたが、南朝の将として戦い、四條畷の戦いで討ち死にした楠木正行主祭神としている。と、までは理解せず参ったような・・・。お嫁さんの姉、義姉夫婦が近くに住まいしているので、そのような関係で参ったようなものでした。

 午後自宅から出発、と云うか解き放たれてフラフラ出掛けたというのが正確な表現です。折からの南風に追われるように順調な銀輪行です。しかし、途中のちょっとした気の迷いから踏み込んだ「野崎観音」で急登坂、ほぼエネルギーをここで使い果たし、次なる緩斜面と最後の急斜面が続く四條畷神社では力尽き「楠木」の残党のように果ててしまいました。父の楠木正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれるのに対して、嫡男の楠木正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれるそうです。父と子の違いが大小とは、少し気の毒ではありますが親しみ深くも感じられますね。

 著者に云わせると「裏切りあり、内ゲバあり、骨肉の争いありと」約半世紀にわたり繰り広げられた南北朝の争乱における、随一の軍事家とされたのが楠木正成です。父正成が建武3年(1336年)5月25日に、摂津国湊川で九州から東上して来た足利尊氏足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った新田義貞楠木正成の軍との間で行われた合戦で討ち死にする。その嫡子は若輩故この戦に参加させてもらえず、時代も下がる正平3年/貞和4年(1348年)1月5日、河内国北條(大阪府四條畷市大東市東大阪市四条という説もある)における、足利尊氏の家臣高師直との間の戦いで討ち死に。これで親子二代にわたる忠魂の構図が出来上がる。四條畷神社が小楠公が無くなった場所に近いと云うことで、明治23年創建されたものです。

 明治維新後に南朝が正統とされる中で、一つの小道具・脇役であったのかもしれません。また「太平記」の中で活躍する楠公親子の様子は、「偉人伝」の一つとして小学校の図書館で読んだ経験は私だけでは無いでしょう。特に河内出身という出自と、忠義のために敗れ去るという潔さがガキの心を撃ったように覚えています。今回私の四條畷の合戦は登坂路という難敵に撃退されましたが、近々ガソリン車で再挑戦してみたいと思います。

 野崎観音は所謂「野崎詣り」で有名。大坂から川を遡り、かつて生駒山の麓に存在した深野池まで舟で行くという参詣の風景が見られ、人形浄瑠璃・歌舞伎『女殺油地獄』(近松門左衛門)や落語『野崎詣り』、『野崎小唄』(作詞:今中楓渓 作曲:大村能章 歌:東海林太郎)等の作品の舞台となっている。境内で永年売店を営んでいたという老人と出会った「かつては何時も賑わいがあった・・・」と語っていたが、左甚五郎が忘れていった「生猫」か、山門の上で「そうだよ」とばかり眠そうにニャーンと相づちを打っていました。ニャンとも落ちにならない落ちが付いたようです。

 写真:野崎観音(慈眼寺軒瓦)、同山門、同本堂、四條畷神社参詣階段、門前の茶屋、再び野崎観音甚五郎忘れ生猫、若草読書会課題図書

 忠義
 はたすのは 誠に辛い 坂の上 <偐忠魂>