河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

千早赤坂から水越峠を越えて 大楠公の点と線を行く

 難波から南河内そして大和を結ぶ古からの街道、水越峠は今は国道309号として少しずつ形状を変ながら今も生き続けています。その、国道309号で河内から大和御所へと越える道筋を旅してみました。すると、楠木正成公(楠公)の足跡が点々と繋がっていました。
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 今回の旅の起点を南河内千早赤阪村としました。その千早赤阪村は、楠木正成公の武運や後醍醐天皇への忠孝でも有名な土地です。
 蛇足ですが、千早赤阪村と云えば最近の話題では、補助金詐欺でした。村に小売業を誘致する出店補助金を貰いながら、実際には殆ど店をオープンしなかったと云う事件。とかく、大阪は斯様な補助金に絡む事件が目立つ土地柄です。多少自虐的になりました。確かにコンビニは一軒も無いが、都会では便利さと引き替えに何処かへ置き去ってしまった景色が村には溢れているようにも思いましたが・・・。
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 国道から少し外れて、千早赤阪村郷土資料館(楠公屋敷跡)脇には楠公誕生地という石碑が建っています。館内には、楠木正成が築いた山城の模型があります。これらの発掘調査の写真パネルや出土物が展示されています。直ぐ近くには楠公産湯の井戸もあります。生誕地伝説のセットとしては申し分ない組み合わせですね。残念ですが、井戸は今回はスルーしました。所在地が「千早赤阪村水分266」とありました、これはご記憶下さい。
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 生誕之地標識。
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 国道に戻ります。更に進むと建水分神社(たけみくまりじんじゃ)が見えて来ます。中殿に天御中主神、左殿に天水分神罔象女神、右殿に国水分神瀬織津姫神を祀る。このうち天御中主神以外は水神です。元の鎮座地は現在地より北約100mの水越川のほとりにあったということで、石川水系の水に纏わる神事や仕来りを主宰していたのでしょう。<注:水分神を祀つった神社。雨乞いの対象となることもあった。中古以降、「みくまり」を「みこもり(御子守)」と解し、子供を守り育てる神としても信仰された。>
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 南北朝時代初期に兵火にかかり、荒廃した。このため建武元年(1334年)、後醍醐天皇の勅命を受けた楠木正成が、現在地に本殿、拝殿、鐘楼などを再建し遷座した。現在、摂社として楠木正成を祀る社殿もある。
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 更に先へ進み、水越峠を潜るトンネル入口で旧道へ進みます。落石等で封鎖されているとは聞いていますが、何処まで・・・。金剛登山客の車が道脇に縦列で並んでいますが、突き詰めるとやはり封鎖されていました。この辺りで、森林浴を楽しみ踵を返しましょう。往復3キロほどの無駄は全くの無駄でもありません。
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 行き止まり。
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 昔は馬の背のような峠道を走りましたが、トンネルを使うとあっという間に奈良県御所市です。脇に水越川が流れていますが、河内の水越川との関係は。江戸時代には峠を挟んだ大和国側と河内国側で水争いがあったといいます。土嚢をいくつか積むだけで河内へ落ちる水が大和に流れることに気付き最初に実行したのは名柄の上田角之進というその時はまだ12,3歳の少年だったのです。結果このことがその後の大和側の水利権を確立することになったといいます。水分神社に成り代わったのが上田少年だったようです。その名柄にも葛城水分神社があったようですが、今回は見過ごしています。
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 旧道に入り少し遡ると祈りの滝がありました。葛城山系の水を集めて落ちる10メートル程の滝の近くに、水汲み場があります。老若男女が大きなポリタンクを幾つも並べて水を汲んでおられます、私もその一人と勘違いされて急かされたので手で一杯いただきました。美味しかったです。
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 名柄の交差点を右に曲り、山麓バイパスを先に走ると高鴨神社です。鴨一族の宗家とも云える神社、来週から始まる「さくらそう祭」には少し早過ぎたが、祭は京都の自邸から持ち運んださくらそうによると立て看板には記されています。ここにも、楠公殿は駒に乗り勇ましいお姿を銅像にされています。この事に関しては少し先で述べましょう。
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高鴨神社鳥居
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 楠公の騎馬像。
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 放生池の鴨は既に渡ったと、蕎麦屋で相席の老人に伺う。鴨蕎麦にはならなかったようだ。その放生池には舞台が設えられていて舞が奉納されるという、一度拝見したいものです。
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 来た道を少し戻りましょう、これまで何度もご紹介している九品寺まで。九品寺の地元の御所城主楢原氏は南北朝の戦いのとき、南朝に味方していた楠木正成公のため一族を引き連れて参戦しています。その戦いに行くとき、一族は身代わりのため石仏を彫って菩提寺だった九品寺に奉納したのが、寺に伝わる千体石仏です。
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 眼下の大和盆地で繰り広げられる天皇一族の興亡、それを眺めつつ葛城の楢原一族は野を下り山を越えて歴史の黒子として戦ってきました、その血脈は今もこの地で流れているようです。その絆を象徴するのが高鴨神社の楠公像だったのです。
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 本堂。
 山門入口の石室の生石仏も、葛城の口聞かぬ証人の一人か。
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 葛城の神
 神武へと 譲ったはずが 仲間割れ <二言主>