河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

梅の名所は菊花も美しい「道明寺天満宮」

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 南河内の梅の名所と云えば「道明寺天満宮」で、大凡異論は無いでしょう。自称八百本の梅林と天満宮という大舞台を背負っているだけに、意見を挟むことは出来ません。私が脱サラするまでの職場では仕事を終えて、目と鼻の先の神社へ駈けだして、梅見と称してコンロなどを用意して焼肉パーティをしていました。今そのようなことをすると顰蹙どころか「逮捕」されるかも。

 今の時期は、天満宮自身の案内でもあるように「菊花展」を開催しています。昨日訪れた時は、本日からの開催に合わせて準備中でしたが、充分に菊の花と香りを楽しませていただきました。この天満宮は、西隣の道明寺と一体でしたが、維新後の廃仏毀釈で分離されてその間の道を高野街道と称しています。近代日本を築いた維新ですが、この廃仏毀釈に関しては間違いだったとも云われています。既に何度も紹介しましたが、白洲正子も同意見を各書に書いていますです。

 さて、道明寺天満宮境内には小林一茶がこの付近を吟行した時の句「青梅や餓鬼大将が肌ぬいで」という句碑が参道脇に。この後一茶は玉手山へも行き「初蝉や 人 松陰を したふ比(ころ)」と読んでいます。天満宮と玉手山は、この頃既に今で云う観光名所だったのでしょう。また、道明寺天満宮菅原道真公が大宰権帥(だざいのごんのそち)として左遷されて赴任する直前に、叔母の覚寿尼に会いに来たという話から江戸期に「菅原伝授手習鑑」という演目が作られ、歌舞伎や浄瑠璃で度々上演されています。覚寿尼と会ったのは隣の「道明寺」ですが、天満宮の方がよく取り上げられ道明寺はあまり宣伝されない結果、今や天満宮が本家扱いに。

 菅原伝授手習鑑を十八番とした歌舞伎役者で「木場の親玉」と呼ばれた成田屋こと四代目市川團十郎(1711-1778)が奉納した手水鉢が今も現役です。歌舞伎ファンならこれだけでも見物でしょう。手水鉢にも「弘化五年」とあり、当時のものと断定出来ます。天満宮の案内にもこの手水鉢は書かれていますが、團十郎とのくだりが無いのが残念ですね。明日も晴れとか、菊花見物、手水鉢そして石川を挟んだ一茶の句碑見物は如何でしょうか。

 写真:天満宮本殿、菊花展、一茶句碑、手水鉢二題、玉手橋を渡って

 もろ肌
 餓鬼大将 天満宮で もろ肌に <偐團十郎>