ご存じのように大和の里を歩くのが好きです。明日香そして斑鳩路を銀輪行しては、日本と云う国の形が生まれた足跡を辿っています。その少し前の時代、と云えば二上山から金剛山麓の東麓に広がる御所・葛城そして今回訪れた當麻の里に行かねばならないでしょう。大和の官寺や高野山そして比叡山の寺は時の政権によって創建され、手厚い庇護の本で隆盛を誇ってきた。しかし、當麻の里の「禅林寺」は豪族當麻一族の氏寺として発展してきました。その當麻一族が衰退した後は地元の人々の信仰に支えられています。その禅林寺、通称「當麻寺」に加えて近くの「石光寺」を銀輪行してきました。
當麻の里の道端の中将姫墓塔、道から少し入ります。(写真は後日追加しています)
仁王門を入ると左に梵鐘、これは国宝で日本最古とされています。そのさらに奥が東塔(国宝)を見上げるぼたん園を設えた中之坊は高野山真言宗別格本山で、當麻寺最古の塔頭で中将姫が剃髪した寺院です。
寺伝によると當麻寺は元は「三論宗」の寺院で、推古20年(612)用明天皇の皇子の麻呂子皇子(聖徳太子の弟)によって創建されました。ある時、真言宗の開祖空海(弘法大師)が立ち寄り「當麻曼荼羅」を拝して以来真言宗になったという。その後、當麻曼荼羅にゆかりの中将姫伝説が阿弥陀如来信仰と結びついて浄土宗も入ってきたという。一山二宗派という珍しいお寺です。
寺伝によると當麻寺は元は「三論宗」の寺院で、推古20年(612)用明天皇の皇子の麻呂子皇子(聖徳太子の弟)によって創建されました。ある時、真言宗の開祖空海(弘法大師)が立ち寄り「當麻曼荼羅」を拝して以来真言宗になったという。その後、當麻曼荼羅にゆかりの中将姫伝説が阿弥陀如来信仰と結びついて浄土宗も入ってきたという。一山二宗派という珍しいお寺です。
梵鐘と東塔。
さらに進むと左に金堂、右に講堂(共に重文)が見えます。そして正面が本堂(曼荼羅堂:国宝)です。お寺の本尊は仏像もしくは名号ですが、當麻寺ではこの本堂の當麻曼荼羅が本尊です。伝説によれば、天平宝字7年(763)中将姫の願いによって一夜で観音菩薩が織り上げたという。因みに、この曼荼羅の原材料は河内(現在の東大阪市)の大蓮という場所の池に咲いていた蓮と云うことになっている。現地には供養塔が建っています。
本堂(曼荼羅堂)。
金堂。
講堂。
河内の大蓮にある中将姫供養塔。
本堂の裏手の西南院と護念院に挟まれるように西塔、その先には東塔が望めます。
一番奥が奥院(おくのいん)で浄土宗です。ベンガラ色でしょうか、お姫様伝説に相応しい色の五線の塀が格式を物語っています。
北門から外へ出ます。外と云っても薬師堂が辻に建つ、町の中に寺があるというのか、寺の中に町があるというのか。話は逸れるが法隆寺も山内に小作地があったようで、戦後の農地解放政策時に問題化したと聞いています。
文具店が小洒落た喫茶店を経営、里にとけこんでいます。
石光寺の矢印方向へ進みましょう。
振り返ると當麻寺東西の塔が葛城連山の懐深くにつつみ込まれるように建っています。
サルスベリが見事です。
寒牡丹には少し遅かったのでしょう。
当然お土産は「中将堂」の中将餅です。当麻駅前に構える店のみと云う、多店舗化を排した素晴らしい経営です。傾けて持ってはいけません・・・とご注意いただくのは、餅が軟らかく変形しやすいためです。
やわらかく甘いですよ。
では電車でお越しの方は駅でお別れ、私はトレンクルで駐車場まで戻ります。
里には至る所に小さな堂宇が。
山二つ 塔と交わる 當麻の里 <偐山頭火>