王仁(わに)は、辰孫王と共に百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたと古事記、日本書紀等に記述される伝承上の人物であります。そのお墓というのが、大阪府枚方市藤阪にある。
百済滅亡後、日本に残留した百済王族・善光(禅広)は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜ります。その曾孫である百済王敬福は陸奥守に任ぜられ、749年陸奥国小田郡で黄金900両を発見して朝廷に献じます。その功によって敬福は従三位宮内卿・河内守に任じられ居館を難波から河内(枚方市中宮西之町)に移します。当地には氏寺として百済寺、氏神として百済王神社が造営されました。
百済滅亡後、日本に残留した百済王族・善光(禅広)は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜ります。その曾孫である百済王敬福は陸奥守に任ぜられ、749年陸奥国小田郡で黄金900両を発見して朝廷に献じます。その功によって敬福は従三位宮内卿・河内守に任じられ居館を難波から河内(枚方市中宮西之町)に移します。当地には氏寺として百済寺、氏神として百済王神社が造営されました。
王仁王の墓。
今回はもう一つの河内(北河内)とも云える、枚方・交野そして寝屋川地域を銀輪行をしました。同行は尊敬する偐家持氏で、見学箇所等は概ね彼のプロデユース。出発地というか集合場所は、家持氏の馴染みの喫茶店「まごころ喫茶ペリカンの家」。大阪環状線瓢箪山付近で、ここから環状線沿いを北上して第二京阪道路から現地に入ろうというもの。
第二京阪道路に入るとモニュメントに見える構造物が見えます。建築に使う物ですが、見ようでは近代芸術とも見えます。この辺りから急勾配が続きます。いわゆるダラダラ坂で、立ち漕ぎを諦めて押して上がります。
上がりきった辺りに「寝屋神社」、家持氏によると「寝屋」は「布施」と同じで「ねどこ」、宿を提供する場所という意味だとか。寝屋神社を過ぎ学研都市線を跨いだり戻ったりしつつ、天野川堤に出ます。天野川は、大阪府四條畷市と奈良県生駒市との境に発し、大阪府枚方市で淀川に合流する天井川の一級河川。その流域には、七夕伝説に関わりのある地名や史跡・歌碑等が沢山存在します。その一つが見えて来ました。
寝屋神社。
機物神社(はたものじんじゃ)です。七夕の時期に来たことがあるという家持氏は、境内は七夕飾りで一杯だったと言う。今は時期尚早ですが、想像してみると大変楽しい。神社の説明によると「機物神社の呼称及び七夕伝説との結び付きについては諸説ありますが、一説によると、古代、枚方市「津田」を「秦田(はただ)」、交野市の「寺」を「秦山(はたやま)」、「倉治(くらじ)」を「秦者(はたもの)」といっていた時代がありました・・・祭神の起源は、農耕・産業を司るのが本来のありさまで、後世になって七夕伝説と結びついて、手芸・学問の神としても尊ばれるようになり現在に至っています。」とあります。
境内に植えられている葉書の元祖と言われる「多羅葉」の葉の裏には、願い事が書かれています。「天の川 願い届けと 書く葉がき」でしょうか。
続いて見学したのが最初に記した王仁王の墓です。目印とした王仁公園とは少々かけ離れていて、現地に辿り着くまで丘陵を上がったり下がったりして少々消耗しました。近年韓国との関係がぎくしゃくしているからと言って、嫌われたわけは無いでしょうが。
「論語十巻」と「千字文一巻」をたずさえて倭の国にわたってきた王仁は、学問を教え儒教と漢字を我が国に伝えたと言われます。来月から元号が新しくなるが、元号の由来は確認できる限り全て漢籍だったのが初めて典拠が日本古典(国書)となると言います。しかし、国書に基づく元号も漢字でしか表せないという、王仁の功績は偉大なことなんでしょう。
「論語十巻」と「千字文一巻」をたずさえて倭の国にわたってきた王仁は、学問を教え儒教と漢字を我が国に伝えたと言われます。来月から元号が新しくなるが、元号の由来は確認できる限り全て漢籍だったのが初めて典拠が日本古典(国書)となると言います。しかし、国書に基づく元号も漢字でしか表せないという、王仁の功績は偉大なことなんでしょう。
千字文一巻。
お墓。
山田池で休息。
王仁のお墓から交野の語源であり、社家の岡田家は野見宿禰の後裔であるという「片埜神社」の門前を少し行くと、阿弖流爲と母禮の碑がある牧野公園に出ます。二人は蝦夷で、討伐に遣わされた坂上田村麻呂に投降して平安京に連れて来らたが田村麻呂の助命虚しく処刑されてしまいます。この地に彼らの墓と伝わる塚があった事から、2007年(平成19年)3月に「伝 阿弖流為 母禮 之塚」(アテルイ モレ)と記された石碑が建立されています。
整備された枚方駅周辺の雑踏を掻き分けて小高い山に出ます、百済王神社です。神社と云っても社と囲いが無くなった拝殿があるのみ。植木を伐採しているので、台風で囲いが飛んだのかと思っていたが、帰宅して調べると昨年の台風以前からこの状態とか。百済王氏の末裔である三松(みつまつ)氏が百済寺焼失後も祭祀を続けていましたが、豊臣秀吉によって中宮の地を追われ、大垣内に居を移した時、その邸内社であったとのことです。
百済王神社鳥居。
では、百済王神社の元の場所へ行くことにしましょう。枚方警察署の前を通過して天野川をわたり、京阪交野線をくぐり坂を登ると中宮地区で左手に見えて来ます。百済寺の一角に百済王神社があります。数度の火災により百済寺・百済王神社は次第に衰退し。後に奈良の興福寺の支配下に入り、再興が図られ、現在の本殿は、興福寺と関係が深い春日大社の本殿を移築したものであるとか。
私の好きな万葉歌に「標結ひて我が定めてし住吉の浜の小松は後も吾が松」があります。作者の余明軍は百済王族系の渡来人で大伴旅人に使えた武者であったと云われています。百済人が倭の歌で倭女性に恋心を伝えるとは、現代人より往時の人々の方がグローバルな人に見えてきます。
ぼちぼち日が傾きかけました、家路へ急ぐこととします。復路は家持氏の計らいで、淀川を下り中央環状線経由で河内へ。斯様なコースだと、家持氏と偐山頭火の動線距離が同じになるという。絶妙なバランス感覚ですが、帰宅して計測するとほぼ同距離75キロを走破したことになりました。ただし、途中淀川河畔で霰のシャワー浴びると同時に虹を見ることが出来ました。教訓的な喩えで申し訳ないですが、霰は現在の日韓関係でやがて両国に再び虹が架かればと、鳥飼仁和寺大橋の下で雨と霰をやり過ごしながら願っていました。
橋の向こうの霰と。
虹の先。
天の川 願い届けと 書く葉がき <偐山頭火>