河内温泉大学

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日経新聞連載小説「ワカタケル」完結 登場の歴代王稜を行く

   連載小説「ワカタケル」は9月10日をもって完結しました。河内王朝ホムダノワケ(十五代応神天皇陵)とその次代オオ(ホ)サザキノミコト(十六代仁徳天皇)からオハツセワカサザキノミコト(二十五代武烈天皇)までの時代を、今で言うところの天皇家の骨肉の争いと情欲で表現した誠に骨格のしっかりとしたストーリーでした。一部では露骨という言い方をされる人もおられるが、所詮人間の権力闘争に血と肉はつきものでしょう。

 十五代応神天皇拝所

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 最後に登場するのがヲホド(二十六代継体天皇)はこれまでの系統と違い、北陸にいたとされるホムダノワケ(応神天皇)の五代後の子孫というから、ほとんど血がつながっていないと言ってもいい地方の豪族であったろうと言われています。実際に継体天皇は即位してから二十年かかって大和に入っている。それだけに、旧守派の抵抗があったと推測されます。
 二十五代までは、ほとんどの大王は濃い血でつながり、そこに葛城一族の女たちの血を混ぜることで純血種の様な王統を築きあげてきたと云えます。この女たちが産んだ子や孫の六名が大王になった・・・その血筋が何故途絶えたのか、という謎には作者はこたえていません。そこに、古代史の楽しみがあるのかもしれません。

  二十六代継体天皇

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 小説は、「(注:河内王朝は)偉大な大王とされた十六代オオ(ホ)サザキに始まって暗愚の極みと呼ばれた二十五代ワカサザキで終焉しまた。すべてはこの二羽の雀(鷦鷯)の間の栄華でした」として終わろうとしています。その中頃に現れて国を盛り上げたのがワカタケルと言い、彼の活躍の様子をヰト(稗田阿礼)という架空の人物を登場させて語りました。(注:編者挿入)

 二十五代武烈天皇

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 今回の小説の追っかけをしたことで神話の流れは大凡つかんだつもりですが、それなりのお温習いとして応神から始まる大王の御陵とされているものや治定されている古墳を巡りました。小説の中身や粗筋は掲載紙を再読等していただくとして、登場人物の陵を写真で振り返ってみようと言うことです。これまで取材していたもの、今回新たに取材・再取材したものを合わせて小説や史実の時系列に並べることとしました。

 自由に鳥を操れるヰトの目か

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 新聞小説を今回のように毎日精読に近い形で読んだのは初めて。竜馬が行く等、文庫本になって読むのは比較的楽なのですが、新聞連載での最終面の「たたきを」を読むというのはある種の特殊な作業のようでもあります。例えば切り忘れて後でと思っていると、週二回のゴミ回収で消去されている・・・と言ったことも何回もありました。図書館へ行けば良いのですが、そこまでもと言う気にもならないのが新聞小説の一日分ですね。

 9月10日最終回

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 題材が元々興味があった分野、そして自宅から近いという地理的好条件で一般の読者とは違ったライブ感ある読書でもありました。今回の旅は、小説の粗筋を古墳で振り返るという小旅行でありましたが、連載小説をお読みになられた皆さんの理解の一助にでもなれば幸いです。
  本稿読者の皆様には、拙い文章・写真に何度もお付き合いくださいまして、原作者と共(?)にお礼申し上げます。

 継体天皇陵では無いかという学者の定説となっている「今城塚古墳」f:id:gourmet_j:20190912093234j:plain
 仁徳と武烈天皇は(雀)仲間?
 諡号(しごう)、仁徳天皇 和風諡号・別称、大鷦鷯天皇(オオサザキノミコト)
 諡号(しごう)、武烈天皇 和風諡号・別称、小泊瀬稚鷦鷯天皇(オハツセワカサザキノミコト)
 鷦鷯(読み)サザキ :スズメ目ミソサザイ科の鳥。全長約10センチで日本産で最小の鳥の一。「鷦鷯」と「雀」は、別の鳥である。
 諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう): 天皇の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。
 追号(ついごう):天皇に奉られなくなった後、代わって死後の称号として主流となった追号も、諡の一形態に属するが、生前の徳業,行状とは関係なしに贈られた号は,追号と呼ばれ,諡号とは区別されている。厳密に言って正式な諡号ではないとか。

 工事中の仁徳天皇陵、ただし平成の鳥居付け替え工事

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 では、改めて十五代応神天皇から順にご紹介です。

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 十六代仁徳天皇陵拝所と制札

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 十七代履中天皇陵制札

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 同拝所、鳥居が新調されています。

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 十八代反正天皇陵拝所

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 同拝所

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 十九代允恭天皇陵制札

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 同拝所

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 允恭稜は、中型で比較的に空閑が広く全景がよくわかります。

f:id:gourmet_j:20190912111722j:plain 二十代安康天皇陵と拝所

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同制札

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 二十代安康天皇陵の写真は、近日中に掲載します。撮ったつもりがついうっかりしていました。と、していましたがこのほど撮影出来ましたので、ご覧のように掲載しました。

 代わりにと掲載していました、河内王朝と葛城一族の血縁関係も掲載を続けます。

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 小説の主人公とも言える、二十一代雄略天皇陵制札。

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 雄略天皇陵は何故か前方部と後円部が寸断されています。雄略が即位前に従兄オハシを殺したが、このオハシの子(次男)が顕宗天皇に即位したときに雄略の墓を辱めたという、古事記の記載通り何かしら手を加えた結果なのでしょうか。

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 雄略天皇陵ではないか古墳の「大塚山古墳」の方が立派に見えます。

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 二十二代清寧天皇陵制札

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 同拝所

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 「ではなかったか天皇飯豊皇女古墳制札。もし、彼女が天皇であれば初の女帝は推古天皇より飯豊天皇が先ということになります。

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 同拝所。22.5代とでも言いますか。

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 二十三代顕宗天皇陵制札

 雄略の従兄オハシの次男、何故か次男から即位しています。

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 同拝所

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 十四代仁賢天皇陵制札

 雄略の従兄オハシの長男です。

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 同拝所

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 二十五代武烈天皇陵制札

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 同拝所

 彼はお腹に子を宿す妊婦の腹を切り裂いたりした非常に評判の悪い天皇でした。

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 二十六代継体天皇陵制札

 北陸から招かれたが、20年あまり大和周辺を彷徨った天皇の墓も何故か摂津三島にあります。

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 同拝所

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 大変長らくお付き合いいただきありがとうございました。 

 この小説だけとは言わず、河内や大和の王稜は身近なものですので折りにつけてご紹介していきたいと思っています。<筆者拝>