河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

充電不要の地図で行く竹ノ内街道

 司馬遼太郎が「街道を行く」の初稿としたのは「竹ノ内街道」です。彼の親族の家が二上山の奈良側の麓の竹ノ内街道にあり、幼少時からよく往き来した街道で深い馴染みがあったからでしょう。彼のそれは、西へ向かう道行きでした。
充電(電池)が不要な地図を参考に

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 その竹ノ内街道を東から入るとどうでしょうか・・・とでも思い付いたわけではありませんが実行してみました。それはことのほか街道としての風情があり、本日の曇り空にも良くとけこんで見えました。
何やら旧家然とした建物、旧山本家とか

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 街道脇には歴史資料館がありましたが、本日休館日のためご挨拶のみ。近くの孝徳天皇陵にもご挨拶に。階段が厳しかったが、現在の御陵の拝所というあり方が「ウソ」だと分かる向きにそれがあります。往時はどの様に拝んだのでしょうね。作りっぱなしで、子孫が墓参などしなかったのか、拝むより古墳の向きが大事だったと言えば理解も出来ますが。まあ、所詮は明治以降に後付けされた拝所も、お参りに来る人の動線上に付ける所が無かったと云うことなんでしょう。
孝徳陵の正面(左奥)は崖っぷちで拝礼出来ないことはありませんが

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 ならば、他はどうかと電池の要らない地図で調べると近くに敏達天皇陵がありました。街道から離れた山中で、ここも随分歩かされましたがエントランスがあって、脇には千年と言いませんがそれに近い木立が並びます。その奥に迎え入れるように拝所が設えられています。これぞ御陵と言いたくなる立派なものです。
杉木立のエントランス

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 敏達天皇は30代孝徳天皇は36代です。ウィキペディアによりますと両者にそれ程差は無い功績です。ただ孝徳天皇は初めて年号を定め「大化」としたとあるのが、歴史に残る功績です。ならば、素人目には宴会の席ではありませんが、お墓の位置は逆では無いかとも思います。しかし墓前の通行量を見ると、孝徳陵は現在の心斎橋筋(竹ノ内街道)にお墓を設けたようなもので、当時としては孝徳陵が上席なのかも知れません。ここは、同列と言うことにしましょう。

序でと「用明天皇陵」と

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推古天皇陵」も見学してきました

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 これらは、正面から拝所に立てる立地になっていました。このパターンで、安定感が持てますが拝所を後世に無理にくっつけたのがはっきりと読めます。

    今回も手前の大和川辺りで所用があり、お天気もなんとか持つと見越しての太子町竹ノ内街道と街道沿いの御陵の訪問でした。ここ数年様々な天皇陵と言われる古墳を見学しています。拝む対象と言うより、動物のマーキングにも似ている天皇・豪族たちの墓の配置でもあるようですね。

 原始地図

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