河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

大阪 深江界隈にて

 大阪の深江といっても「ピン」と来ない方が多いはず。大阪人でも何処やそこは・・・と仰る方が多くなった場所ですが、明治までは陸路の主要交通の場所でありました。
 現在の大阪で「江・瀬」とつくところは住之江、江口、江之子島、菱江、三ノ瀬、長瀬と多いですね。同じ「氵(さんずい)」でも汚職事件を現すものとは大違いで水に関係しているようです。では、今回は地名二文字両方に氵編がつく深江についての小話です。
 深江観光案内

f:id:gourmet_j:20210429130159j:plain

 深江は大阪市のHPによりますと「東成区の代表的な地域資源である暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)と放出街道が交差するあたりにある深江地域は、古代から栄えて交易やものづくりが盛んで、江戸時代には、菅笠や鋳物(いもの)で栄えました。周辺には歴史のある神社仏閣も多く、白壁や土蔵の街並みなど、落ち着いたたたずまいを残す地域です」と奈良街道と放出街道の結節点という記述で、地名由来は記されていません。
 深江神社

f:id:gourmet_j:20210429130255j:plain

 古代の深江は浅海(河内湖)で、南に河川(大和川・石川)から土砂が流れ込み、沼地であったようです。当地は「笠縫邑」とも呼ばれていて、肥沃な土地は菅笠の材料であるスゲの生育に適し、良質のスゲが自生しているのを見つけた笠を作る生業をする集団である笠縫氏が移り住んだのではと推測されています。浅瀬の一部が「笠縫島」とも呼ばれ、この呼称は万葉集本居宣長の随筆集「玉勝間」にも登場します。友人の偐家持氏ブログ参照
 深江神社歌碑  
 四極山 うち越え見れば 笠縫の 島漕ぎ隠る 棚なし小舟
                     高市黒人 万葉集巻3-272

f:id:gourmet_j:20210429130349j:plain

 深江の菅笠は落語「東の旅」でも度々ご紹介していますが、お伊勢参りの喜八と静六が難波を出て奈良街道で暗越峠を越える直前に旅装束の最後として深江で菅笠を購入するというのが端緒になっています。ご存じのように関西からお伊勢参りをするGOTO旅行の走りのようなもので、当時は世の中不景気になると狂ったように全国から伊勢へ、伊勢へと人の波が続いたと言われています。落語では、肝心の伊勢参りの様子は描かれず、「三十石舟夢の通い路」で伏見から無事帰阪します。
 旅の起点 玉造稲荷神社
 現在の交通公社の様な「講」が玉造稲荷神社にありました

f:id:gourmet_j:20210429130458j:plain

 さて、話は大幅にずれていますので、ここらで元に戻りましょう。出だしに記しましたように、深江は河内湖の上町台地東側に位置しますので、南からは大和川(石川)の悪水や北からの淀川水系の悪水に悩まされていました。悪水とは、大和川付け替えに尽力した中甚兵衛が大水のことを表現しています。飲用に適さない、洪水の元になるという意味もあるようです。
 河内湾から河内湖になっていく

f:id:gourmet_j:20210429220851j:plain

 1704年に大和川が付け替えられてからは、主な洪水の原因は淀川水系になりました。ここ深江でも、幕末から明治にかけて淀川の洪水被害に遭いそれを記した二基の石碑が深江村の旧家から見つかったと云うのが、今回の記事の端緒であります。一つは幕末から明治期の災害や騒動、もう一基は特に被害が甚大だった明治18年(1885年)の淀川洪水について記しています。
 二基の石碑

f:id:gourmet_j:20210429130612j:plain

 明治18年淀川洪水を伝える石碑は高さ約180センチ。片面に「十八年洪水」、その裏に「酉歳(とりどし)紀念碑」と大きく横書きされ、碑の4面に文字が刻まれる。氾濫を繰り返した淀川の歴史の中でも、明治18年の水害は特に被害が大きく、日本における最初の近代治水工事、新淀川の開削工事のきっかけにもなったとされています。その水害の様子は、1885年6から7月に発生した。豪雨による増水で現在の枚方市付近の堤防が決壊。そこへ台風が追い打ちをかけ、濁流が南西方面を襲った。大阪府内の浸水家屋は7万戸を超え、現在の大阪市内も上町台地を除く低地部の大半が浸水したとのこと。
 記念の銘版

f:id:gourmet_j:20210429130700j:plain

 記念碑が建つのは「深江郷土資料館」奥の空地、前には菅が人工的に植えられています。資料館には郷土が生んだ人間国宝茶釜製作者「角谷一圭」氏を顕彰するために作られましたが、菅笠に関する資料も豊富です。
 茶釜資料

f:id:gourmet_j:20210429130902j:plain

 菅笠資料
 おし照る 難波菅笠 置き古し 後は誰が着む 笠ならなくに
                           万葉集巻11-2819

f:id:gourmet_j:20210429130934j:plain

 角谷一圭氏生家を始め町のいたる所に手作りの道案内等が配置されています。町並みで気付かれる方もいるでしょうが、各戸や蔵は水害を避けるため石積で路盤から高くなるように設計されています。
 角谷氏生家

f:id:gourmet_j:20210429131013j:plain

 石積みの蔵

f:id:gourmet_j:20210429131057j:plain

 日本地図を製作した伊能忠敬も測量中に当地に滞在したという民家、その手作りのような看板もありました。
 手作り説明板

f:id:gourmet_j:20210429131124j:plain

 滞在した民家

f:id:gourmet_j:20210429131158j:plain

 馴染みのある深江の郷土資料館に淀川洪水関連の石碑が再建立されたと云う新聞記事を読んでの、今回の銀輪行でした。何とか資料館と云う類いのモノの多くは作家とかの印税を財団で吸い上げ、運営理事には作家の親類縁者が就任して高級を取っています。加えて入館料を徴収するというのが多い。しかし、この資料館は地元の篤志家が土地や財を提供して無料入館で運営されていることに感心します。結果、目立つような事業は手に負えるようですが、細々でも良いですから斯様な運営を続けてほしいものです。
 郷土資料館

f:id:gourmet_j:20210429131226j:plain

 

 初瀬川 淀の流れと 浮き沈み
          今は都は 遥か東国  <偐山頭火