河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

脳出血からの62日目の生還

 愚妻が昨日脳出血による急性期そして回復期を乗り越え「再生」して帰宅しました。発作が起こったのが8月19日ですから、日数にして62日目にあたります。自分自身の記録としても残そうと云うことで「闘病記」風に纏めてみました。

     妻入院当日のメモ
 午前急な来客があり隣の事務所で面談
 妻とは起床後、会話を殆どしていない
 11:50  
 客と別れて室内に戻る、二度寝の妻二階より降りてくる、様子がおかしい、ろれつが変だ
 11:58   
 H市立医療センターへ電話
 内科でかかっているが様子がおかしい。内科では脳外科と相談する
 12:10   
 病院より、救急で来院されたいとの連絡、現場で判断するとのこと
 12:16   
 救急隊へ出動依頼
 12:20(頃)   
 救急が現場着、聞き取りの後H市病院へ
 12:45   
 担当N医師、スキャン診断の結果脳内出血、とりあえず出血止めと周辺の圧迫を取る点滴薬投与。午後4時に再度スキャンして、今後の方針(開頭手術又は投薬続行)決定するということで、手術室の準備が開始された
 13:26   
 愚息・愚女に連絡  
 16:??  
 再度スキャンの結果
 出血は治まっているので、緊急手術は回避・点滴投薬を続行 

 以上の経過で大変大きなキーとなったのが当日の突然の友人来訪です。この日は愚息が家を建てるため、某所で土地を求めるというので愚僧も事前に現地を訪れる予定でした。来客がなく予定通り、朝から現地に向かっていたら、発作を起こしても救急などへの連絡が出来ないまま世を去っていたかも知れません。
 脳内MRI写真、右に白く写っているのが侵食された範囲です

f:id:gourmet_j:20211020110331j:plain

 急性期を脱したら「早く出ていけ」です。入院患者は幾らでもお待ちなのですから当たり前です。病院CWから示された転院先を見ると地元医師会に配慮の跡が見えます。このリスト以外でも良いのかと聞くと、良いと言ってくれるので当方でも探すこととする。知人の元大阪市大学医学部講師に相談すると、数カ所候補を挙げてくれる中に私も治療内容を多少聞いているM病院が重なる。そして、Mと決めることとしました。
 9月2日M病院へ リゾートホテルのような外観です

f:id:gourmet_j:20211020110516j:plain

 担当に決まったS先生は若いが誠実で俗にい云う「頭の良さそう」(これが当たり前なんですが中々おられない)な感じの方。ズバリ「甲状腺なども病をお持ちなので、そちらが悪化したらH市の病院へお戻り頂きます」と厳しい話です。
 階段乗降訓練

f:id:gourmet_j:20211020110553j:plain

 発症後できるだけ早くリハビリをすることで一度ダメージを受けた脳細胞は回復しないものの、リハビリで周囲の神経を活性化させる事で機能回復に繋がり、損壊した脳機能を補完すると云われています。土日などの暦に関係無く一日三回(理学療法作業療法、言語療法)+オマケが入院日から連続して続きます。患者にしてみたら一番しんどい時期で、死にたいと云う言葉も発しはじめます。娘や息子そして孫達の電話による声かけ、絵手紙が彼女を支えていたようです。
 Kz君からお手紙が

f:id:gourmet_j:20211020110634j:plain

 今月に入り、買い物、お料理等の実践的な訓練になった頃、帰宅も見え始めます。本人はもうすこし早いと思っていたそうですが、S先生は慎重に最後の〆を各訓練士に求めて下さったようで、結局退院は昨日19日となりました。今後、血管が切れた脳神経内科へはH市病院へ、言語訓練へはM病院へ通院加療を続ける事となっております。
  NチャンKy君の絵手紙

f:id:gourmet_j:20211020201002j:plain

 入院そして転院と簡単な文章にすると順調に進んだように見えますが、入院特に最初の入院では相当強引な手口で事を進めました。転院も、同様で第二希望はと聞かれ「ありません」と云いきって押し切りました。そして、皆さん期待に応えて下さり、四肢は100パーセント、言語は80-90パーセント程度の快復です。関わって頂いた医療関係者に心から感謝します。

 脳血管 切れて生死の さかいめを 覗いてきたが 転送帰宅 <偐山頭火

 妻は云う 生き地獄だと 病院は 地獄とこの世 宅急便夫  <偐山頭火