河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

九州行乞の旅「三朝温泉木屋旅館と山頭火」

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三朝温泉は、近年変身を図られている、温泉街を復活させたり、三徳川の鰍の鳴き声を楽しんだりという、古き良き時代の温泉のある街復興を目指されています。先頭に立つのは若き旅館の主とその子息達です。ここ数年目だった変化を感じるのは私だけではなく、客足が増えてきていることから実感できます。

 その三朝にあっては、木屋旅館が一番の贔屓です。館内に三カ所もの源泉を持ち、それぞれを時間の許す限り個室として使わせてくれる。一時間いくらなぞと余計なことは云わない。私は、手堀の湯というのが一番気に入っている。源泉の上に風呂桶があるあのタイプです。風呂場の床は町のスーパー銭湯にある岩盤浴の極上ですな。

 街作りですが、共同浴場が河原の露天では勇気ある者の独占になりますので、たまわりの湯に続いて足湯の着いた薬師の湯を開設して、街に下駄の音が響くようになってきました。スマートボールやラーメン屋さんにも人だかりが出来るようになりました、親子連れやカップルが楽しそうにそぞろ歩きしているのが、温泉街の原風景です。しかし、三朝の原点といえる株湯も改装されたのには、正直驚いた。あのひなびた雰囲気がまるでないと、ぼやくのは野暮か。

 写真:手堀の湯、登録有形文化財標識、館内、温泉街のゲームセンター、新しい株湯、株湯の飲泉と足湯

 最後に、木屋旅館大女将の父、河本緑石と山頭火とのご縁を記して、山頭火を偲ぶ行乞の旅の〆としたい。
 河本緑石は盛岡高等農林学校で宮沢賢治と出会いました、緑石は郷里に帰って県立倉吉農学校の教師をされていますが、賢治との文学的交流は続きます。緑石は、倉吉中学在学中から荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の自由律俳句に親しみ、その後、井泉水の主宰する句誌『層雲』にも参加しています。ここで山頭火と緑石の接点が生じます。
 山頭火の句の個展を開催した収益を、仕送りしていたようです。そんな緑石が、昭和八年に無念の事故で急死します。大山の宿坊で緑石の来訪を待っていた、山頭火はその報を聞いて、「緑石はまだ見ぬ友の中では最も親しい最も好きな友であった。一度来訪してもらう約束であったし、一度往訪する心組でもあった。それがすべて空になってしまった。どんなに惜しんでも惜しみきれない緑石である。あゝ。」~昭和8年7月21日山頭火日記「其中庵」から~ と死を悼んでいる。
 緑石の死から2ヶ月後、賢治もこの世を去りますが、賢治の遺作『銀河鉄道の夜』の中で、溺れる友を救って亡くなる“カムパネルラ”は緑石がモデルではないかと賢治研究家の中でよく言われているのです。そう緑石は水泳訓練でおぼれる生徒を救って自ら没しました。
 「木屋旅館」が運営する喫茶店「茶房 木木」の一角に「カムパネルラの館」という名のスペースがあります。是非一度訪れていただきたい。