河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

奈良平群周辺「音の花温泉と長屋王・吉備内親王の墓」

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 陽気に誘われて生駒トンネルをくぐり抜け音の花温泉へ行きました。温泉につかる前に一汗かこうと表題のお墓巡りをしてきました。長屋王天武天皇の皇子の中でも特別扱いを受けていた高市皇子の子で、母も天智天皇の皇女だという伝承があるほどひときわ高い身分です。妃は草壁皇子の娘、吉備内親王です。

 長屋王は718年には大納言に任じられ、学問と政治力に長けていたと云われます。藤原不比等が没して後724年には聖武天皇から左大臣に取り立てられて政治の重鎮となります。その長屋王の屋敷が旧そごうデパートの敷地から1988年に発掘されました。大量の木簡が出土して、長屋王の暮らしぶりを知ることが出来ました。諸国三七カ所に領地を持ち、飛鳥周辺の田や畑から毎日新鮮な作物が届き、屋敷内には氷室、製銅所、炭焼き所、製材所はてには医者まで常駐していたと云います。

 長屋王の繁栄は藤原不比等の子らにとっては面白いものでは無かった。武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂の四兄弟であります。729年下級官吏から「長屋王が密かに要人に呪詛して国を倒そうと謀っている」との密告があり、藤原宇合の率いる大軍が長屋王の屋敷を包囲した。二日後長屋王は一言の弁明も許されず、膳夫王(かしわでのおおきみ)はじめ四人の子とともに自死させられる。後、吉備内親王も追って果てた。

 この事件は、藤原一族によって画策されもので、えん罪であったとする説が強い。それを証明するかのように、聖武天皇長屋王と吉備内親王の葬送を罪人では無く、通例に倣って行わさせています。長屋王の他の夫人たちや兄弟子孫にも一切罪を問わなかった。

 平群の道の駅に車を置き、先ず目指したのが長屋王の墓、周辺は極限まで民地として利用されています。数百メートル北西の吉備内親王の墓は、墓の主たる部分を残して周りを住宅開発されています。時の権勢を誇った権力者も、歴史の流れの中でその扱いが粗末になっているのは気の毒とも見えました。

 さて、昔友人が移り住んでいてよく通った懐かしい町ですので、もう少し散策してから温泉へ向かいましょう。もう遅いと思っていたコスモスが矢田丘陵の斜面に咲き誇っていました。ここから眺めると生駒の十三峠あたりが見えてきます。その向こうが我らが河内であります。(本文は青春出版社「地図とあらすじで読む万葉集」を参考に記しました)

 写真:平城宮長屋王邸(前記本より)、長屋王墓、吉備内親王墓、付近案内図、平群駅、コスモス畑、音の花温泉


 平群の里にて
 ふるきこと たずね疲れて 秋櫻(はな)わらう   <偐山頭火