河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

お湯休め「新説有間皇子が悲劇の結末、有馬温泉総支配人にトラバーユ」

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 有間皇子の悲劇。大化の改新(645年)後即位した孝徳天皇は政治の実権を中大兄皇子に任せ、皇子は新たな政治を次々と打ち出す。653年都を難波から大和へ遷すことを拒んだ孝徳は一人難波に残されて失意の内に憤死した。この孝徳の唯一血の繋がった息子が有間皇子であります。

 失意の内に無くなった孝徳の跡継ぎは、その妻(皇極上皇)が再び天皇となり斉明と名乗った。同じ天皇が再び皇位に着くことを重祚と言うが、歴史上重祚したのは二人。残る一人は怪僧道鏡を寵愛した孝謙天皇、後の称徳天皇であります。有間皇子にとっては、父と自分を無視した中大兄皇子の仕打ちに、失意の日々を送っていたであろうことは、察するに余りありますと同時に身の危険を察知すべきだったかもしれません。

 斯様な時にすり寄って来たのが、蘇我赤兄。赤兄は「斉明には失策がある」と唆された有間皇子は挙兵を決意するが、その気持ちを赤兄に逆手にとられて捕らえられてしまう。幼子の手をひねるような、策略に乗ってしまったのだ。斉明天皇中大兄皇子が湯治で待つ、牟婁の湯(白浜温泉)に送られた有間皇子は、尋問の末に討たれる。(絞殺されたと伝わる)

 岩代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また帰り見む(今、私は松代の松の枝を結んでいく、万一無事でいられたら、もう一度ここに戻ってこの松を見ることが出来るであろ)と尋問に向かう心情を謳い
 家にあれば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎(しい)の葉に盛る(家にいたなら立派な器に盛ってお供えする飯、旅の身である私は椎の葉盛る)と尋問の前日に我が身を神に祈った
 しかし、祈り空しく有間皇子は尋問の二日後都への護送中に、藤白で討たれた・・・というのが通説であります。しかし、重祚をして再び政治の実権を握った斉明天皇は、人民の声やネット上での評判を人一倍気にしていたという。重祚している今の安部総理に近い心情であったと思われるため、秘策を巡らしたのであります。

 斉明天皇中大兄皇子そして有間皇子は、牟婁の湯に浸かりながら、今回のことはお互い「湯」に流そう。しかし臣下の手前中途半端な結末はまずいので、「有間君には一芝居を打って藤白で亡くなったことにしてもらう、しかし身の安全は保証する。今後は名を有馬と改めて、政治の世界から身を引いてくれ。賄いに関しては有馬温泉の湯主として身を立てられるように計らう」と牟婁血盟が結ばれたというのが、歴史の真実であった。

 有間皇子の墓が在るという、海南市藤白地区を散策していると、なれ寿司屋さんがありました。近在にはコンビニは勿論食堂も何も無いので、なれ寿司を求めて車内で昼食を食べました。その後、散策疲れと満腹感でつい気を失った風に眠りにはまった、その瞬間に有馬温泉に関する有間皇子の夢によるお告げがあった。お墓の前で居眠りすると狐にだまされたのか、はたまた皇子が真実を告げたかったのか。
 
 写真:岩代の松(成長が悪いのか、又は何代目かのか、みなべ町西岩代地区)、同記念碑、牟婁の湯(白浜の外湯、夢では談合湯)、藤白神社熊野街道)、有間皇子墓と記念碑、夢を誘った寿司(笹ふじ寿司店

 牟婁の湯にて
 牟婁の湯と 有馬のお湯が 皇子救う   <腹黒重吾>

 孝謙天皇と温泉
 http://blogs.yahoo.co.jp/gourmet_1212/52782818.html