在原業平が河内の女性に会うために奈良の天理から通った・・・と云う恋の道、道中は聖徳太子の道や奈良街道と重なる歴史の道でもあります。
大和と河内の間にそそり立つ生駒高峰は急峻、古人の恋への険しい道。十三峠と街道周辺の風景と歴史を辿ってみました。
大和と河内の間にそそり立つ生駒高峰は急峻、古人の恋への険しい道。十三峠と街道周辺の風景と歴史を辿ってみました。
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在原神社兼在原寺。
河内の高安に住むと云われる件の女性の住まいへ通った業平の起点は、天理市櫟本町(西名阪道路天理IC真南)の在原神社兼在原寺と云われています。業平はここから河内高安の女性宅を訪問したというのが、業平道伝説です。大和川に沿って西進して、生駒山系を何処で越えるか諸説ありますが、本日は十三峠越という前提で道行きしましょう。
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恋の道ルート。
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ここから数百メートルも登ると十三峠です。峠の最高部は「信貴生駒スカイライン」となっている、そのトンネルを潜るとにわかに緩斜面となり道幅もやや広くなります。
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緩やかな坂を下る途中に社が見えて来ました。杵築神社 (きづきじんじゃ)は福貴畑の氏神。祭神は素戔鳴命。木造深沙大将立像(室町時代前期)が特に良いのです・・・と、ボランティアガイドと見受けられる御同輩から説明したいと申し込まれる。結構なお話し、快くお請けするが失礼ながらあまり記憶には残らない。何でも、近々数十人を連れてくるが下見というか説明の練習代わりになったようです。脇に観音堂があるのは、神宮寺であろうと云うことだが詳しい資料は残っていない。役行者でもおられると、役者が揃うという所でしょう。
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平群へ向かって下る街道脇にあるのが「藤田家」。重要文化財指定の大和の古民家です。街道脇の関所のような威容を持った民家ですが、道端の地蔵様もよくお似合いです。現代の十三街道と云えるバイパスは、藤田家住宅から灰田川の谷を挟んで南にあり車の往来はこちらがお勧めです。
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更に坂を下ると平群駅に出ますが、ここで暫く十三街道から外れましょう。平群には古墳も沢山あります。そのうち特に有名なのが「長屋王」と「吉備内親王」でどちらも宮内庁が管理しています。
奈良時代初頭(729年)、藤原氏の陰謀に倒れた左大臣長屋王とその夫人です。当時権勢を振るっていた長屋王が謀反を計画しているとの告発を受け、兵が王邸を包囲し訊問の結果、王は自死。妻の吉備内親王(きびないしんのう)、子らも後を追い、夫妻は生駒山に葬られた。今では共に民家に囲まれて、装飾や植栽が無いと見過ごしてしまいそうなお墓です。
奈良時代初頭(729年)、藤原氏の陰謀に倒れた左大臣長屋王とその夫人です。当時権勢を振るっていた長屋王が謀反を計画しているとの告発を受け、兵が王邸を包囲し訊問の結果、王は自死。妻の吉備内親王(きびないしんのう)、子らも後を追い、夫妻は生駒山に葬られた。今では共に民家に囲まれて、装飾や植栽が無いと見過ごしてしまいそうなお墓です。
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吉備内親王墓。
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竜田川と並行して矢田丘陵が南北に続きます。この山中を横断して斑鳩に至ルートもありますが、業平達は竜田川沿いに大和川付近まで下り明日香方面へ向かったものと思われます。それに従って進むことにしましょう。現在の道も竜田川大橋で国道25号と出会い、東西に奈良街道を形成しています。東に進むとやがて左に松並木とその奥に法隆寺が見えてきますが、本日はスルーして進みます。
幸前町交差点で国道から逸れて右に曲がり、広隆寺グランドホテルの横を進み、富雄川を渡ると高安という町名が現れます。この地名は業平が通った河内の「高安」に因んだ名前と地元の氏神天満宮に説明板があります。八尾市高安の飛び地のような高安と云えば地元の方に叱られますかな。地元にとっては迷惑な話かも、高安と命名される前の地名は不明です。
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同説明板。
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高安の里外れから矢田丘陵方向を眺めると菜の花畑が、菜の花の時代性は分かりませんが、業平の時代にあったとすればこの様な眺めの中をルンルンと歩を進めていたのでしょうか。これから先天理までは、畑の中を行く単調な一本道ですので、ここでルートを法隆寺と飛鳥地方を結んだ太子道へ切り替え聖徳太子に挨拶をして行くことにします。
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太子道の説明板。
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聖徳太子と云えども、ここ安堵町の太子様は身の丈12メートルという天をつくようなご立派な体格です。安堵町は案山子で町おこしとやらで、至る所に案山子が生息しています。幼稚園の立ち番かと思えば案山子・・・であっと驚くこともありますが、この聖徳太子様は遙か彼方からでも存在がわかります。お顔の向きからは、法隆寺へ向けて出勤されている途中と分かりますが、背丈の割りには黒駒が貧弱なのは愛嬌でしょう。
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道
恋の道 修行の道 同じ道 <偐山頭火>
おことわり
在原神社兼在原寺に関する写真は2013年撮影の写真です、現状は多少変化がある可能性があります。