河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

お湯休め「楠葉のお台場発掘現場見学 京都守護職松平容保の秘策か」

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 最近読書のツールとして重宝しております「Kindle」で読みふけっていたのが、「京都魅惑の町名」「古事記物語」「吾輩は猫である」とか「万葉のなりたち」。一部を除いてアマゾンから無料でリリースされている本が多いですね。正座していて腰が疲れると、ソファーに横たわったり、ひっくり返ったり。本の表示を縦横自在に出来るので、色々な姿勢で読むことが出来ます。

 さて、一番はまっていたのが「幕末入門」(中村彰彦著 中公新書)幕末の志士のお話なのですが、彼の記述は出身藩やその先祖までたどり、何故かような行動に出たのかを探り出す。一人の人間の経験や知識そして行動力だけでは読み切れない、歴史やルーツに光を当てています。

 会津藩松平家の誕生は、二代将軍にまで遡ります。二代将軍秀忠が正室に隠れて側室に生ませた子(幸松)を信州高遠の小大名保科家へ養子にやり保科正之と名乗ります。秀忠に続く家光も腹違いの弟がいることを知らなかったが、いずれ知るところとなり、小大名にはしておけないと先ず出羽山形へ移封、更に会津へ転封。表向きの石高は二十三万石でしたが隠し高五万石と合わせると二十八万石、これは徳川御三家と比べても遜色なく、水戸藩をもしのぐ大藩となっていました。

 斯様な歴史、ルーツを持つ会津藩ですから、幕末に東国からはるばる都にあがって京都守護職を全うしようとしたことは、その血が為せるところでしょう。また、正之以来朝廷にも金銭的援助を行ってきたと言うことは「尊王佐幕」思想を藩風として持っていたことがうかがい知れます。

 尊王佐幕思想を持つ京都守護職ですから、攘夷派の長州藩等が都をめがけて進軍してくるとなると、防御としての砦を築いたのが「楠葉のお台場」と云われています。表向きは、外国船が淀川を遡るのを討ち取ると云うが、蒸気船は川底が浅くて進めません。また、台場の中を「京街道」が貫通しているところから、大坂と都を行き来する浪士達の検問所でもあったと、研究家は述べておられます。

 そのような、楠葉台場発掘現場を見学してきました。先の本は勿論、日経新聞コラム「淀川べりの要塞、松平容保の深慮」(3月5日)を参考にしました。なお、台場は発掘調査が済む2015年には歴史公園として整備されることになっている。最後になりますが、現在NHKで放送されている「八重の桜」という番組で紹介される会津藩、白虎隊の頑なまでもの幕府に対する忠誠心も、先に記しました藩祖まで遡る徳川家への恩義を藩風として守っていた証左でしょうか。

 写真:台場南面を望む(左から右上へ堤が台場の図面通り淀川へ向かっている)、台場標識(詳しくは熟読ください)、先の堤場の道標(橋本陣家と混同か)、発掘現場(竹の炭素化した筒が見えます)、橋本宿近景(今も素泊まりの看板があります)、京阪橋本駅と渡船場道標

 道程:京阪電車橋本駅下車大阪寄り5分、ガソリンスタンドの前全体

 楠葉台場
 砲台の ティショットかな 今楠葉  <偐楠葉パブリックG支配人> 

 橋本渡船場
 渡船から 電車へ変わる 船着き場  <偐山頭火