斑鳩の法隆寺を半日かけてゆったりと味わいました。
「斑鳩」という町の名前の由来は 昭和22年2月法隆寺周辺の龍田町、法隆寺村そして富郷村(とみさとむら)が合併にあたりそれぞれが元の名を譲らなかった。当時法隆寺管主だった佐伯定胤(さえきじょういん)の元に相談に行くと「それでは・・・」と筆を執ったのが「斑鳩」で、世界遺産にも登録される町の名前がここから生まれました。(太田信隆著:新・法隆寺物語、集英社文庫より)この佐伯定胤大僧正こそ今日の法隆寺を築き上げた。聖徳太子が法隆寺創建の人であれば、佐伯は法隆寺を再興そして世界文化遺産へと押し上げた偉大な大僧正です。
「斑鳩」という町の名前の由来は 昭和22年2月法隆寺周辺の龍田町、法隆寺村そして富郷村(とみさとむら)が合併にあたりそれぞれが元の名を譲らなかった。当時法隆寺管主だった佐伯定胤(さえきじょういん)の元に相談に行くと「それでは・・・」と筆を執ったのが「斑鳩」で、世界遺産にも登録される町の名前がここから生まれました。(太田信隆著:新・法隆寺物語、集英社文庫より)この佐伯定胤大僧正こそ今日の法隆寺を築き上げた。聖徳太子が法隆寺創建の人であれば、佐伯は法隆寺を再興そして世界文化遺産へと押し上げた偉大な大僧正です。
中門から回廊伽藍
法隆寺へはJR関西線法隆寺駅からバスで約十分。昔は徒歩で、大和川から矢田丘陵の南端へ続く緩斜面をやや見上げるように歩いたという。白洲正子は「かくれ里」(講談社文芸文庫)宇陀の大蔵寺の項で「郡山からガソリンカーに乗って、その上かなりな距離を歩く・・・春の日ざしをあびて、菜の花の咲く田舎道を・・・遠くに法輪寺・・・ついで法起寺そして法隆寺の大きな塔」と記しているが、今はその天理と法隆寺を結ぶ軽便鉄道も菜の花の田舎道も無く国道からアスファルト道を行くと松並木の向こうに南大門が見える。
南大門と中門その奥に五重塔
南大門に立つと前に松並木、後ろには中門、五重塔と今の法隆寺の中心線に立っていることがわかる。今というのは、法隆寺は創建直後火災に遭い、元の寺はやや東の若草伽藍という場所にあったとされています。この再建論に関しては明治以降大きな論争を巻き起こしていましたが、若草伽藍の発掘調査で、そこにも大きな伽藍があって中心線が現在の伽藍と少しずれていたことから、再建論が確定したと云います。この若草伽藍跡から出土した礎石を持ち出した者がいたそうです。今も法隆寺脇に大きな屋敷を構える北畠男爵です。彼は法隆寺近くの煙管屋(きせるや)という商店の倅、名を平岡鳩平と言いました。江戸末期天誅組に加わり賊軍となり仲間はほぼ討伐されますが、鳩平はうまく生き残り、有栖川宮に仕えた頃から南朝の忠臣北畠親房の末裔と称して最後は大阪控訴院の院長となり男爵に叙せられていました。(新・法隆寺物語より)今は屋敷の門屋に布穀園という洒落た喫茶店があります。
布穀園庭から この何処かに法隆寺の礎石が飾られていたのか
南大門を入ると中門とそれにつながる回廊、その中に五重塔、金堂そして大講堂があります。お寺が創られた元の信仰対象は釈迦の遺骨信仰です。これを納めたのが仏舎利とか塔で後に仏像が信仰対象となって金堂が寺院の中心となる(五木寛之著:百寺巡礼第一巻 薬師寺より)といわれています。法隆寺の創られた頃には既に金堂が中心に据えられています。法隆寺の五重塔芯礎は史上二度だけ発掘されたことがあります。釈迦の遺骨が納められた云う物だけに発掘なんぞもっての外、いや宗教といえども歴史的な遺産ぜひ発掘調査をと世論が二分したのが大正15年1月。腐食によって舎利容器などの傷みが発見され、佐伯管主と他数人が密かに塔の地下深く入り拓本を取りスケッチして元の場所に納め直した。しかし、これは当然ながら世の人の知ることとなります。しかし信仰の根源に関することだけに公開を拒んだ佐伯管主は糾弾されます。昭和24年10月「発掘するが公開はしないと」いう佐伯管主の気持ちをくんだ形で舎利容器は再び掘り起こされ学術的な調査が行われたのち元に納められた。今後万が一のことでも無い限り塔の地下深く封印された永遠の時を過ごすことでしょう。
回廊を中心にした区域を西院伽藍と呼んでいます。一廓には西円堂、三経院そして上御堂が立ち並んでいる、その角に茶店があります。一台の飲料自動販売機とテーブルが並んでいるだけです。店内では絵はがきやいわゆるグッズも販売されています。時に大勢の人が押し寄せるのか、団体で占拠するな食事を取るなと張り紙が。外国語でも書かれているのは、観光寺院という側面も併せ持つお寺ならではの苦労が感じ取れます。その茶店の前に会津八一の歌碑「ちとせ あまり みたび めぐれる ももとせを ひとひのごとく たてる この たふ」が建碑されています。
会津八一歌碑
伽藍配置の東には正岡子規の句碑「柿くへば・・」があります。子規は明治28年秋日清戦争に記者として従軍したあと、郷里の松山に帰り、東京へ行く途中大和路に立ち寄った。伽藍の東の鏡池の脇には当時茶店があった。この茶店に腰を下ろして柿を喰ったのだろうか。回廊の中には鐘楼がある、偶然に鳴り響いても不思議では無い。大正3年秋、茶店を取り払うこととなり、何か残したいという有志の募金で集まった七十円でこの句碑を建碑することとなった。句の原本は残っていなかったので、高浜虚子が子規自筆の句録から写真で文字を起こして碑にしたという。このあたりの南側が若草伽藍跡でしょう。高浜虚子も明治40年、法隆寺へは小説の推考のためか逗留しています。当時宿泊したのが大黒屋ですが、今も旅館業の看板がかかっています。
東大門をくぐり抜けると東院伽藍への参道が開けます。その先には夢殿の特徴的な屋根が見えてきます。奥には中宮寺があります。中宮寺の山門はどこ・・と思われた方も多いでしょうが、この夢殿への入り口が中宮寺の入り口です。中宮寺のお勝手口は、勝手ながら写真に撮らせていただいたが、北側に五線の塀で囲まれていました。序でですので、中宮寺が創建当時建っていた場所へも足を伸ばしましょう。聖徳太子が母穴穂部間人太后(あなほべのはしひとたいこう)の菩提を弔う為にその御所に建立したとされる。鵤(いかるが)尼寺とも呼ばれたそうだが、場所は現在地より数百メートル東の数年前までは田圃だったところ。今は発掘調査もされて遺跡を縁取るような境界もはっきりとされているが、これからどうするのという感じでもあります。法隆寺、法輪寺そして法起寺の三塔が見られる場所と売り出そうとしたようだが、みな余りにも小さく法隆寺の塔に至っては後一軒民家が建つと消去されそうな風景は「名所」と呼ぶには無理がある。
東大門から夢殿、中宮寺勝手口
これで、法隆寺半日紀行の幕です。最後までお付き合いただいて感謝いたします。今回は仏像、建物内部等のご紹介は全て省略しました。写真撮影禁止は勿論のことですが、これらは皆さんが実際に身近にご覧になっていただくことが肝要かと。本稿ではそのきっかけとなるべく、持論や自己知識をひけらかすことも避けました。最後に法隆寺の普段馴染みでない風景等をご紹介します。
法隆寺、日本文化財の保存恩人ウォーナー博士の五輪石
法隆寺北の天満池堤から見た西日に輝く金堂など
最後になりましたが、本紀行で再び法隆寺を丹念に歩くきっかけとなった太田信隆大兄に感謝します。太田氏がNHKの敏腕放送記者としてご活躍のころ、私がある法人組織の広報担当として、歴史物に関して色々と薫陶を受けました。その折にいただいた著書「新・法隆寺物語」を再読したのが今回の紀行のきっかけであり大いに参考としました。氏は五木寛之氏とも親交があり、五木は太田家(斑鳩町法隆寺の誓興寺)に永逗留して斑鳩の町を散策したと記している。また、この経験が「百寺巡礼」と云う大巡礼への出発点でもあったとのことです。
恵贈書と誓興寺
半日修行
千余年を 半日で説く 偐坊主 <偐山頭火>