河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

お湯休め「大坂夏の陣古戦場巡り 岡山口の戦」

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 年初から大坂夏の陣戦跡を巡っております。木村重成奮戦の地と墓所。戦いの端緒を切った樫井の戦い。そして木村と同じ八尾若江の戦いで果てた徳川方山口重信の墓所木村重成の位牌堂です。

 その後この春から、二年ぶりに仕事(の様なもの)へ復帰しました。そこで関わりを持つこととなったのが「大坂夏の陣」に関する集客とイベント作りであります。鎮魂の楽曲(箏曲)、記念グッズ作り等々です。商品としての形となる頃には皆さんにもご紹介して、ぜひ関心を持っていただきたいと思います。これも、年初から夏の陣に関心を持っていたことに関するご縁かなと思いつつ。

 さて、昨日は何時もの四天王寺へ参って、親父の命日に供える高野槙を求めてきました。墓所に一対、仏壇に一対の計四本を背中にしょって、少し寄り道したのが岡山口の戦い跡です。岡山口と行っても「どこや・・」と云う方が多いと思います、この付近は今では「勝山通り」と呼ばれている生野警察の少し東の前方後円墳辺りです。

 大坂の陣で徳川方が古墳の上に陣地と物見を作った。その戦に徳川方が勝利したので、以後この古墳を御勝山と呼ばれるようになった。と、各資料では説明があります。**徳川方、岡山口の先陣を前田利常天王寺口のそれを本多忠朝に定む。**(菊池寛著:大坂夏の陣)にあるように加賀藩二代藩主前田利常がこの古墳に陣を築いて総力戦を戦ったのでしょう。

 その後、大坂城は落城し淀君秀頼親子は自刃、多くの戦国生き残りの勇者が殉じた。後、徳川の世が二六〇年間続くこととなります。御勝山古墳は前方部は公園に、後円部は史跡として残そうという意図があるのか柵が設置されています。前方部公園では市民が、将棋にふけっておられる横に、大阪管区気象台跡の石柱あります。昔も今もこの古墳は物見には好都合だったのでしょうか。

 写真:御勝山古墳説明板(徳川方が陣を築いたとの記載)、岡山とも記載のある史跡柱、後円部遠景と勝山通り、大阪管区気象台跡、公園内の折口信夫歌碑と説明板

 岡山口にて
 家康も 三里逃げたか 真田軍    <偐黑田官兵衛>

 菊池寛大坂夏の陣結語)
 大阪城の勇士の事を思うと、人は一代名は末代と言う格言を素直に肯定出来る。