戦国武将の後藤又兵衛は、黒田官兵衛に仕え数々の武功故大隈城一万六千石城主となったが、後に領主黑田長政(官兵衛の長男)とのそりが合わず出奔し約十年間浪々の身となっていた。その又兵衛に声をかけたのが豊臣秀頼。同じ時期に徳川家康からも声をかけられていたと言うから、彼の武士としての素養は両軍にとって必要なものだったのでしょう。
慶長19年(1614年)後藤又兵衛は大坂城に真田幸村らと共に入城、大坂冬の陣の幕が切って下ろされる。難攻不落を誇る大坂城も、徳川家康の策略に落ち、和議するも結果としては内堀までもが埋められた。内堀が埋められた城は単なる目標程度に過ぎず、十年間は持ちこたえられると言われた大坂城は、裸城となってしまいました。
翌年、大坂夏の陣が起こりますが後藤軍や真田軍は城に拠点を築くこと無く、主に河内平野に戦場を求めて奮戦したことは既に記載したとおりです。樫井川の戦、片山道明寺の戦、若江の戦、天王寺の戦、岡山口の戦等々です。片山道明寺の戦で、奮戦空しく後藤又兵衛は戦死します。
その後日談として、二歳だった一子為勝を連れて夫人は実家である岡山に帰る。実家である三浦家は岡山藩主池田公の家老(荒尾家)の家臣であった。その後池田公は鳥取藩に移封となり、家臣団も鳥取へと移るが、三浦家と共に後藤一族も鳥取へと来て、その後為勝の子が建てたというのが、同寺に伝わる後藤一族の墓。正面中央が後藤又兵衛、右横が夫人そして左が為勝の墓碑。この墓碑には「*前略*為勝之厳父曰後藤又兵衛正延虩華道蓮。今也尋於道蓮之元由、黒田官兵衛源政成法号如水入道實子*以下略*」とあり、父曰く後藤又兵衛は元々は黒田官兵衛の實の子であると刻まれていて、後藤又兵衛は黒田官兵衛の子であるという伝説が築き上げられた。
寺が管理する表示板にはこの事はふれられていません。真意の程は黒田官兵衛かその子長政または神のみぞお知りになる。歴史ロマンですね。