浜坂で出会った塩治周防守が死守しようとして果てたという、鳥取を経由して帰阪することとします。道中砂丘が「おいでおいで」と声をかけますので、立ち寄り。と、云うより昼食と土産を買うためでもあります。砂丘サイドのレストハウスにて昼食は、シラス明太子丼。ここで、食事に関して執着が無い自身を、嘆く結果にも。
適当に注文した丼は、シラスが高価なのか刻んだ菜の漬け物を増量剤にした塩丼ですな。加えて明太子がのっかているので、高血圧ならぬとも背けたくなる様な塩分。高菜を一つひとつ摘まんで排除する。明太子も避ける、と食べ終わった丼には漬け物と明太子が山の様に残ります。土産はラッキョウと梨、梨は自身用です。腹が空いている武士は、戦場で死んでも往生できないと戦国武将の考えがあったが、この状態では私は武士としては往生できないなと思いつつ景福寺へ向かいます。
後藤又兵衛一族の墓にお参りです。彼の墓は九州耶馬溪にもあり以前参拝しました。また、関ヶ原での同じ負け組である薩摩を頼って鹿児島に落ちたと云う伝説もあり、かの地にも墓があると云います。大坂の陣イベントでは又兵衛さんに御活躍頂いたので、お礼も兼ねての久々の墓参。彼の墓が鳥取にある子細はリンクでご覧下さい。島原の乱で無くなった武将など、池田候縁者のお墓が多いようですね。
次に、因幡国庁跡を目指します。大伴家持縁のこの国庁跡は、田圃の真ん中に柱跡らしい目印があるのみ、近在に鳥取市因幡万葉歴史館と云う展示施設があります。この時間だからでしょうか、どちらの駐車場もサラリーマンの昼寝場所と化しておりました。往時の家持国守がご覧になったら「どやされ」る事でしょう。職務に励めはげめ、と。
大伴家持氏の小言が私にも届く前に退散とします。ここから、進路を西に取ると鳥取自動車道です。途中には吉岡温泉、宝喜温泉等から声がかかりそうですが、帰着時間を考えたら潮時、一気に河内を目指すこととしました。