河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

お湯休め「薄田隼人の墓を探して」

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 例の大坂夏の陣関連です。大坂冬の陣では参戦するも、肝心な所で遊郭遊びをして大失態を犯すというユーモラスな、薄田隼人の憤死した羽曳野市内に在るという墓を求めてMTB行に。陣中でお戯れ、と云うと少々不謹慎ですが、塙団右衛門は女性連れで参戦していたとも云われている。要は戦闘部隊としての体をなしていなかったのかも知れません。

 その墓ですが、西名阪道路と近鉄南大阪線の交点、南西の農地と住居の混在する農道脇にあります。子孫の浅野家が墓を建てて、地元の羽曳野市に寄贈したようであります。50㎡程の用地に石塔や謂われ書き、大坂夏の陣跡の石柱などが配置されている。

 この墓の直ぐ脇に「東高野街道」が通り、その近くに母方の実家があり小さい時から良く通っていたが、薄田の墓は知りませんでした。少し先にあるのが応神陵と誉田八幡宮ですから、夏の陣の中でも細かく分類すると「誉田の戦」で亡くなったと云うことでしょう。

 午前の戦で後藤又兵衛が石川を挟んだ小松山で亡くなり、午後に展開されるのが道明寺そして誉田の戦。その後退去命令が下り、真田幸村などは陣を離れることになります。薄田隼人の墓は大阪市内にも在る。どれが本物と云うことでは亡く、縁者が思いを込めて寺に供養を願ったのでありましょう。(知人の偐家持氏のブログから拝借)

 写真:国道170号脇の看板(向は誉田中学校)、西名阪との交点南西が墓の位置、お墓です、大坂夏の陣石柱

 薄田隼人の墓
 石川を 挟んで豪傑 相眠る  <偐山頭火