河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

お湯休め「河内菱屋東へトレンクル行」

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 私の住む横の道から西が「菱屋西」という字名です。中には立派な邸宅があって、そのイメージが一人歩きしてして高級住宅街というブランドでも通っているようです。が、その様な住宅もかつては多かった程度でしょう、現状では。

 同じ市内に「菱屋東」という字名もあります。どちらも、江戸時代に行われた大和川の川違えによる、新田開発の事業者の名に基づくものです。同様には「鴻池新田」「山本新田」等があり、いわば民間活力を利用した新田開発の名残です。菱屋東・中・西各新田開発は菱屋庄左衛門・岩之助父子、鴻池は言うまでもありません。

 今の河内を含む大阪そのものの発展の基盤になったのが、大和川の付け替えとその後の新田開発と云えます。その歴史について綴った冊子が「大和川物語」といいます。今もって続編が作り続けられている様で、関わった一人として自慢の一つです。関連したシリーズとして「河内の街道物語」もあり、現在も頒布されているようです。

 と、何時もの様に前置きが長くなりました。本日は先日ブロ友の「偐家持」氏にご教示いただいた、菱屋東の「八剣神社」とその周辺をお散歩してきました。新田と古大和川の堤等が折り重なった、交差点の上にある神社です。社横東西が暗越奈良街道、南北が河内街道で時代を二百年も引き戻して眺めると、新田の中の堤の様な道であったと想像されます。街道沿いは家並みから想像できるだけですが、脇に逸れると船板を使った大きな蔵が残る屋敷が残っていて、新田による経済力を見せつけられます。少し足を伸ばしたトレンクル行でありました。

 写真:暗越奈良街道、古大和川の説明、街道脇に道標が、八剣神社、土地利用説明板、船板の蔵のある道

 奈良街道
 御厨を 東の旅で 八剱社 先に望は 生駒暗越  <偐おかげ参り>