河内温泉大学

姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します

湖東三十三面観音像巡り エピローグは借景山水庭園

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 賤ヶ岳へ登るロープウエイを横目で見て狭いトンネルを抜け、管浦への曲がりくねった道との交点を更に北に走ると、湖西へ貫通する近代的な国道303号に出る。これを左折して走り西琵琶湖へ向かう。旧奥琵琶湖ドライブウエイから管浦経由で行くのが、白洲さんらしい走り方だが暗雲を背にしてのドライブはリスクを排除しよう。国道303号の奥琵琶湖トンネルをくぐるとマキノ、さらに西へ進むと業平が隠棲したと伝わる在原地区へ行くが、今回は国道161号を南下して琵琶湖岸道路へ進む。今津で再び国道303号で西へ向かい、函館山スキー場を右手にしつつ比良山系の山並みを迂回すると鯖街道へ入ります。

 鯖街道朽木宿の高厳山興聖寺は嘉禎3年(1237年)近江の守護佐々木信綱曹洞宗開祖道元禅師に願い出て建立、仁治元年(1240年)遷仏式が行われた永平寺の末寺。西近江の宗派を統括する総禄所でありました。佐々木信綱は宇多天皇の直系(とも寺伝に書かれているが)、晩年この地に入り隠棲、高野山で没しています。曾孫の義綱より朽木氏に改め廃藩置県まで1万石の大名だったそうです。
 室町幕府十二代将軍足利義晴が三好松永の乱を避け朽木氏を頼り三年間、十三代将軍義輝は細川幽斎を従えて六年半それぞれこの地に滞在した。その時、細川幽斎は熊川城主の沼田光兼の娘・麝香(じゃこう)と結ばれる。幽斎も相当な趣味人だったらしく和歌・茶道・連歌・蹴鞠等の文芸を修め、さらには囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深く、今の十八代当主細川護熙もその血筋をひいているのでしょうか。

 脇道へ入り込んでしまいました。興聖寺に十二代足利義晴が滞在した期間、将軍を慰めるために銀閣寺の庭園を基に造られたのが旧秀隣寺庭園です。「近江には、人に知られていないが、名園が多い」と「かくれ里 石をたずねて」で白洲さんが紹介している庭園です。「安曇川の渓流をへだてて、比良山が眺められる。今は少々荒れているが妙に手のこんだ庭園より、石組みも自然で、気持ちがいい。」と云うように素朴な石と借景が素晴らしい庭園です。案内を請うと寺の奥様が出てこられて、本堂へ案内された。寺の生い立ちや朽木の歴史、朽木氏のお話と細川家との関係等を皇室や総理大臣の写真を並べて説明を受けるが、庭園に関してはどうぞご覧くださいという程度で些か肩すかしでした。だが、それだけ先入観なしに山水画のような薄い雪景色の比良山系を借景にした庭園を堪能することができたとも云えます。その雪雲がさらに低くなってきました、鯖街道を京へ急ぎましょう。

 石の文化で入った滋賀の旅、十一面観音が三体で三十三面になって再び石の庭園で幕を下ろすのは何かの縁でしょう。足早でありましたが白洲ワールドの中、奥琵琶湖の東西を楽しめた旅でもありました。

 写真:興聖寺山門、説明、庭園二題、老椿説明

 借景山水
 石と池 比叡を従え 雪の中 <偐山頭火


 <感謝>
 本稿で今年の「河内温泉大学」の(偐)講義は終了とします。拙い作文にお付き合い下さい、ましては拍手や励ましのお言葉を戴きましたことに感謝いたします。来年も、再来年も息と筆力が続く限り(偐)講義をさせていただく所存ですので、暖かいお気持ちでお付き合い下さい。
 なお、来年は体力の回復を目指しつつフィールドワークにも力を注ぎたいと念じております。
 最後になりましたが、お読みいただいております皆様方に取りまして、今年以上に素晴らしい新年を迎えられることを心から祈念いたします。