我々が昨夜泊まった己高庵は己高山の麓にあるが、山中にあったのが鶏足寺です。己高山山中には己高七寺と呼ぶ修験道の名刹があったそうで、その一つが鶏足寺。開いたのが行基と泰澄大師、後に再興したのが最澄という。先の渡岸寺と同じキャストが登場するのは、白洲正子によると白山信仰が泰澄によって越前から都へと伝えられた痕跡だという。他にも越前から近江にかけてそのような伝説が残っていると「湖北 管浦」で記している。さらに湖北を開いたのは、本地垂迹思想の創始者である泰澄大師だったと述べている。プロローグでふれた、白洲さんの言う琵琶湖の東部を北から南につながる観音信仰の直線的な痕跡の謎解きです。
鶏足寺は本堂は焼失しているが、本尊などは輿志漏神社(よしろじんじゃ)内の己高閣に保管されている。ちなみに現在紅葉で著名な鶏足寺は、旧飯福寺(はんぷくじ)のことで元々は鶏足寺の別院です。己高閣の後ろに世代閣という収蔵庫があるが、これは己高七寺の一つ世代山戸岩寺(といわじ)の本尊薬師如来立像などを保存している。
鶏足寺は本堂は焼失しているが、本尊などは輿志漏神社(よしろじんじゃ)内の己高閣に保管されている。ちなみに現在紅葉で著名な鶏足寺は、旧飯福寺(はんぷくじ)のことで元々は鶏足寺の別院です。己高閣の後ろに世代閣という収蔵庫があるが、これは己高七寺の一つ世代山戸岩寺(といわじ)の本尊薬師如来立像などを保存している。
その己高閣の十一面観音像は先に拝見した渡岸寺にある観音様に比べて素朴、田舎娘といった雰囲気だがこれは好みの問題か。収蔵物には他にもあったが案内のおじさんに特に紹介されたのが猿の彫り物。白洲さんも「単純な彫りと木目が美しく、顔つきも愛らしい」と感想を述べている。加えるなら、信長の仕打ちで壊滅状態になった天台宗寺院を秀吉が手厚く援助しているが、その秀吉の文書に並んで「猿」が置かれていることに含み笑いしてしまいました。
我々が訪れたのは秋が足早に過ぎ去り己高山の頂には雪が積っている厳冬、秋には波のように観光客が訪れて応対に大変だが今は時間をかけて案内できると、係のおじさんは朴訥と語る。「鶏足寺は建物等は何も無くなったが、形式上は真言宗豊山派奈良長谷寺に属しています。それをお守りしている我々は真宗ですわ」と鶏足寺の仏様方も先の向源寺と同じ境遇にあることを面白おかしく語っていた。ボランティアと云えばそれまでだが、篤い素朴な信仰心のなせるボランティアではないかと思わせる。おかげで三十三面観音像巡りの結願です、丁寧にお礼を述べて辞した。
さあ、虎号を管浦を大きく迂回して琵琶湖の西へと進め、朽木の興聖寺へと向かうこととする。背後からは大きく黒い雪雲が迫ってきているが、観音様の御慈悲を期待しよう。
写真:輿志漏神社、薬師堂、己高閣の十一面観音像、猿(十一面観音巡礼より)、世代閣展示