聖徳太子の棺を見学した後は、縁のお寺を参拝しましょう。聖徳太子建立の寺院といえば四天王寺や法隆寺が筆頭に浮かびます。中でも法隆寺は創建当時の伽藍といい周囲の情景までもが往時を偲ばせます。それだけ住む人にとっては不便な住環境であったことでしょうが、いまだにこれくらいの規模で合併もせずに存立していけるのも法隆寺あってのことでしょうか。同じことが明日香についてもいえますが、近年はインバウンドとかまびすしい輩の声に押されて都市計画の変更を行いました。
古に近い斑鳩の風情を楽しむなら今のうちかも知れません。と寅号のハンドルを握りながら国道から脇道へ入ったら法輪寺の塔が見えて来ました。矢田丘陵の緩斜面に抱えられるような五重塔、この様な景色が好きです。まして、この横には無料駐車場が在ります。これも好感度を上げています。斑鳩から明日香までの往還道を「太子道」と名付けています。拡大解釈すれば難波宮や四天王寺までの道も太子道といえなくはありません。
前項で書きましたようにこの太子道を銀輪行してみることにしましょう。さて、何処まで行けるかは未定稿です。しばらく当てずっぽうに走ると「中宮寺」の発掘と史跡整備が行われています。現場を横目にして走ると国道を横断します。町の清掃施設や工場が立地しています。富雄川を渡りますと安堵町高安に入ります。高安という地名は河内にもあります、はてなと思っていると道端の説明板には在原業平さんのお名前が。彼が河内の高安の彼女に会いに行く道中にあるこの地区が、業平を偲んで高安を地名にしたという。奈良街道と太子道の交点辺りなのかもしれません。
高安地区を抜けると関西本線が見えます。小さな踏切を渡ると太子道の標識が見えて来ました。何とも見窄らしい道ですが、往時としては一級国道であったのでしょうか。今だと「酷道」と酷評されそうです。町役場の横を進むと、見覚えのある屋敷が見えて来ました。富本憲吉の屋敷ですが、今は旅館とレストランに代わっています。趣は残してはいますが「似て非なる」モノのように見えます。ここは腹が減ってはいますが、軽くパスして「安堵町歴史民族資料館」を目指すことにします。
白洲正子の「かくれ里 宇陀の大蔵寺」の一文に「法隆寺へ行くのも、王寺から歩いたり、郡山からガソリン・カーに乗って」という下りがあり長らくガソリンカーなるものとはと関心を持っていました。そこへ最近知人が送ってきてくれた宗教冊子にガソリンカーの模型を展示している歴史民俗資料館の事が記されていて、いつか確かめたいと思っていました。資料館の前にトレンクルを置き、切符を購入。学芸員と覚しき女性に軽便鉄道を問いますと、少し引いた様子で屋敷の蔵に展示しているとのこと。鉄道は歴史では無いと云うもののここで扱っている資料の多くは、伝統産業の「灯心」と農業・人々の暮らしの道具。電車のオモチャは脇役の様であります。
そのオモチャ、オモチャというのもはばかるようなジオラマですが、天理教の本部へ信者が参詣する輸送手段として新法隆寺~天理間に敷設されたものだったようです。しかし、軽便という規模のため、他社に吸収合併され良いところ取りの末安堵町平端駅と新法隆寺駅間は廃止された今や幻の路線。良いとこ取りが近鉄天理線ということらしい。先ほどの学芸員にその痕跡を問うと明確には残っていないが、河川を渡るところなどにレンガ作りの遺構があるという。
こうなると、明日香村への輪行どころではありません。鉄道敷きの痕跡探索隊に急遽編成替えです。鉄道敷きといっても軌道幅が70センチほどの痕跡は簡単に見つかりません。ヒントは先ほどの学芸員の「新法隆寺駅は関西線法隆寺駅の南、転車場もあったが今は民家敷きになっている」という一言。法隆寺駅の直ぐ東には水路が通っていますので、そこならレンガ作りの痕跡が見られるのではと法隆寺駅を目指します。無性に腹が減って来ますが、ソイジョイを食べながら・・・。
法隆寺駅は近年改修されていますがそれは駅舎のみ、水路などは権利が交錯して中々手をつけられないのが逆に保存にとっては好都合でしょう。案の定、駅南10メートル程の場所に前後のコンクリとは違うレンガの遺構らしいものがハッキリと見てとれます。遺構の先を見ると一定の幅で不自然な空き地が続きます。間違いなく天理軽便鉄道が新法隆寺駅へと入っていた線路敷きの遺構です。
聖徳太子の棺に始まった太子の威徳を偲ぶつもりが、太子道になり最後は天理軽便鉄道を探す旅となってしまいましたが、この不思議な高揚感はなんでしょうか。おそらくガキの頃の「冒険」に通じるものでしょう。ただ少し違うのはその後道端の食堂でトンカツ定食を喰っている現実だけ。ガキならあめ玉でもしゃぶっているのでしょうか。